Prologue: 4. Discovery

「なんか大将、最近楽しそうっすねぇ」

 いつも以上にやたらと弾んだ声音で、年上の部下は唐突にそんなことを言った。
 あまりにも予想外な内容に、セドリックは思わず走らせていたペンの動きを止める。同時に、先程から緩く響いていた音楽がぴたりと止んで、鼻歌を口ずさんでいたとようやく気づいた。赤くなって、魔導師は弁解しようと面を上げ――思わず呻き声を洩らす。淡い黄緑の眼をにまにまと眇めたアントル・スカウト副長が、大量の書類を抱えて佇んでいた。
 
「うげぇ」
「うげぇ、ってひどいっすなーたいしょー。ハイどうぞこれもよろしく」

「今ので楽しかったの全部飛んでっちゃったっすよ……なんで一気に出すんすかアントル」
「へっへっへ、すんません」

 気のない謝辞にため息をつきつつ、積み上げられた山に手をつける。休み明けに悲鳴をあげたくなければ、少なくともこれの半分は終わらせてから引き上げなければなるまい。萎れかけた気力を明日への期待で盛り返し、一心不乱に一枚一枚片付ける。
 
「で? なんか楽しいことあったんすか、大将」

 そんな最中さなか、にやけ顔のアントルが机の向こうから集中を削いでくるので、セドリックは思わず彼に仕事を押しつけて帰ってしまいたくなった。兄のように慕うこの陽気な年上部下に、たったひとつ抱く不満が、この書類提出の仕方だ。毎日少しずつ出してくれればいいものを、こう一気にどんと山を目の前に積み上げられると、その光景だけで気力など削られていくというものだ。決裁欄のサインが、枚数をこなすごとにおざなりになっていく気がする。だがこの状況だし、所詮は署名、もともと読めないことも多い代物である。少々雑になったくらいで、それを責める者はいるまい。
 
「アントルのせいで楽しくないから言いませんー」
「ひどっ! えっセドリックそれはひどっ! 書類はオレのせいじゃないっすよ大将!」
「書類があるのはしょうがないけどこの状況はアントルのせいだもん、一気に出すからっすもん、もう俺かえりたーい」
「えええぇ帰らんで! がんばれ大将! ほら終業まであと二時間!」
「帰んないけどアントルのせいだー年下上司をこき使うアントルひどいーわぁー」
「うー……売店でマフィン買ってきてあげるっすから」
「えっ、ほんとに、いいんすか!」

 じゃあブルーベリーがいいですブルーベリー、と図々しく要望を出してみる。子供じみたねだりようにアントルは楽しげに笑い、はいはいとセドリックの頭を撫でて退室した。
 程なくして、小さな紙袋を片手に部下が戻ったときには、書類の山は二割程度その量を減らし、隣で新たに決裁済みの山を作っていた。ひとまずは順調、予定通りだ。机を離れ、セドリックは有難く菓子を受け取る。どーぞどーぞオレのおごり、と手をひらひらされたので、出しかけた財布は素直にしまっておくことにした。
 
「――で、何かいいことでもあったんすか?」

 買ってきてもらったマフィンに早速かぶりついていると、本日二度目の質問が降ってくる。今度はそれににんまりと笑みを返し、大きく頷いてみせた。
 
「そう! 最近新しい友達ができて。明日もそのひとに会いに行くんすよ、もう楽しみで楽しみで」
「おお、そんなに?」
「うん、ほんとに。すっごくきれいなひと」
「なに、女の人すか」
「ううん、男」
「えっ」

 珍しげに目を丸くする部下を笑って、セドリックはもう一口、大きくぱくりとマフィンにかぶりついた。そんな顔をされたって、あの雨夜の恩人がうつくしいのは事実。アントルだって、きっと彼に会えば同じ感想を抱くに違いない。にまにましながらマフィンを飲み下し、セドリックはまたペンを取り上げた。
――ああ、早く会いたい!

*  *  *

 人の行き交う市場の隅、さていざ、とばかりに青年たちは積み上げた野菜を見下ろした。ほんの何度か、おやつやら何やらを買って帰るには荷物運びの駄賃で充分だったが、それ以上の行動をとるにはやはり、それ以上の金額を稼ぐ必要があった。実家は百姓、門前の小僧習わぬなんとやらとばかりに、セドリックも青果を売る父について街に出た経験はある。その相棒たるレスターもまた商家の生まれとくれば、ふたりが小遣い稼ぎに朝市で青果露店を開いたのも、至極理に適った選択と言えた。

「へーい、らっしゃい、らっしゃい。野菜だよ、新鮮な野菜。ぱりっぱりの野菜」

 日頃聞かないがらっぱちな口調、よく通る独特の喋り口で、レスターは見事に朝市に紛れる。どこからどう見ても、数百人の強者を率いる騎士師団長には見えない。その隣にキャスケットをかぶって並ぶセドリックは、むしろ日頃から城勤めに見えないと言われる身。そう珍しくもない若い男ふたりの組み合わせを、人の視線は素通りしていく。
 だが売り手は目立たなくとも、際だって瑞々しく色鮮やかな野菜を積んだ露店は、見事に人目をひいた。どうやらロンドンでは流通の問題か、新鮮な野菜が手に入りづらいらしい。早速というかなんというか、数人が足を止める。いずれも使用人らしい身なりの中年の男女、訝るように品定めをして、青年たちと野菜を交互に見比べた。
 
「にいさんや、こいつはいくらだい」
「ひとつでその値段だよ。悪くないだろ」
「なんだいこれ、果物みたいな色してるじゃないか」

 いくつか並ぶかごのひとつ、鮮やかな赤と黄の野菜を詰めたそれを、ひとりが不思議そうに指す。そういえばこの野菜はこちらで一般的ではないのだったか、なんだか文化差を見たようで面白くなりながら、セドリックはひとつ手に取ってナイフで割いた。さくり、小気味いい音がして、特有の苦みを帯びた香りが漂う。スモッグの臭気が満ちる曇天の街に、それは鮮烈だった。
 
「パプリカって言うんだ。うまいよ、生でもいけるし、焼けば甘みが出る」
「辛そうだね、真っ赤で」
「そんなことないさ。ほれ、試してみなよ」

 切り分けたそれを手からレスターが取り上げ、客に渡す。注意深くそれを口に入れた客たちは、どうやら野菜が眼鏡に適ったらしく、ほう、と感嘆の声をあげた。元野菜作りの血が騒いで、すかさずセドリックは口を出す。
 
「こっちの黄色も同じだよ。マリネして前菜でも、肉詰めにしてメインディッシュでも。料理人のアイデア次第で、なんでもいける」
「なかなか見ない代物だろ、それがこの値段。タマネギひとつ買うのとそうそう変わりゃしない。――なに、豆より高いだって? おかたいこと言うない、こいつぁうちだけの品だぜ、他じゃ手に入んない」

 茶々を入れる客にレスターが陽気に切り返し、笑い声があがった。立て板に水、人々の注目を浴びても物怖じしない相棒は、黄色の野菜を片手にすらすらと口上を述べる。
 
「煮豆にステーキ、茶色ばっかの晩餐はどうもこう、ぱっとしないだろー。付け合わせにこいつで全部解決。色もいい、味もいい、身体にもいいと来りゃ損はなし。お皿の上に彩り添えて、一役、いや二役三役はかたいね。さぁ、買った買った」

 よく通る声をレスターが張り上げれば、ではふたつ、こっちにもみっつ、と客からお呼びがかかる。それがまた客を集め、いつしか小さな露店の周りには人だかりが出来ていた。たったふたりで、青年たちは嬉しい悲鳴を押し隠し、対応に追われる。
 
「おばぁちゃん、気をつけて持ってってな。ありがとうございましたー」
「おっ、こんなに。嬉しいねえ、一シリングおまけしちゃおう。またどうぞご贔屓に」

 午前のお茶イレブンシスの時間より早く、青年たちの財布は一杯に、野菜のかごはひとつ残らず空になった。

***

「――そう、野菜売りなのか。教師だと思っていたのだけれど」

 本日の商品だったそれを前にして、意外そうにアシュレイは蒼の眼を丸くした。
 合流、初対面同士の紹介を経て、やはり肉料理中心の昼食を三人で済ませた、その直後の話。土産にとっておいた野菜を目の前に出してみせたところ、おもむろにそんなことを言われたので、セドリックもレスターも見事に度肝を抜かれた。その言葉を発した本人は、ふたりの反応を予測していた様子で、平然と紅茶のカップへ角砂糖を落とし込んでいる。
 
「……なんで野菜売りって、ブライトン」

 問えば、アシュレイは軽く首を傾げ肩を竦めてみせる。当然、と言わんばかりだ。
 
「爪の間に僅かだが、土。手のひらにかごの持ち手の痕もある。シャツの前腕部だけ皺が寄っているのは、しばらく腕まくりをしていたから」
「すげぇ」
「――あと、午前中に会った知人から、変わった野菜を売る露店が新しくできたと聞いた。その直後に、そんな痕跡を残したままこれを持ってこられればな」

 ほんの僅か唇の端を持ち上げる彼を前にして、セドリックは間抜けにぱかんと口を半開きにしたまま。一方相棒は青の眼を眇めたまま、読めない笑みで先を促す。
 
「教師ってのは?」
「何度か会っていますが、そのうちの数回、袖口にチョークと、指先に赤インクの跡があったので。画家ではない、その他の画材の痕跡はなく、手のたこは筆よりペンのそれに近い。腕や肩あたりがしっかりしている、日常的に重い物を持つ。本なのだろうと推測していましたが、持っていたのは野菜かごでしたね」
「正解。チョークはこいつの絵描き趣味、赤インクは売り上げの記録用」
「残念でした。こんなのは初めてだ」
「深読みしすぎたな」

 答えが出ない魔導師の代わりに、レスターが適当に肯定する。どうやらうまくごまかせたようで、ほっとした。それにしても、野菜でミスリードをはかれたものの、それ以外はほぼ当たり。魔法でないというのが嘘のようだ――いっそ術を使いましたと言われた方が、すんなりと納得したかもしれない。生身の人の能力そのままで、これほどとは。
 隣からつつかれて、ようやく呼吸の仕方を思い出す。我に返ってセドリックが息をつくと、それを笑いながらレスターは椅子の背へともたれた。
 
「それにしても驚いた、千里眼か何かかと。タネがわかれば、なんでもなかったけどな」
「ええ。きっとそうだ、ほとんどの物事は」

 なんでもないことないじゃないか、と反論しようとした言葉は、アシュレイの静かな肯定によって遮られ、そのままセドリックの喉につかえる。それを意に介さず、デザート代わりかやたらと砂糖を入れたミルクティを一口飲んで、銀の髪をした青年はさらりと言ってのけた。
 
「コロンブスの卵ですよ……誰かがやってみせれば、そのやり方が解れば、広まればーーきっとこの世の何事も、なんてことはない」

 青と蒼の眼が、ゆるりと視線をかわす。どこか相手を気に入ったような、競うようなふたつの色に、セドリックはただただ、開いた口が塞がらなかった。

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