Prologue: 7. interlude II
「ねぇ、うるさい。最近歌いすぎ」
やたらと明るく鼻歌を口ずさむセドリックが癪に障って、ウィルバーはわざとマグカップを机に叩きつけた。こちらがどんな思いで毎日・朝晩、こうしてハーブティを淹れると思っているのだか――もっとも今朝に限っては、半分程度はやつあたりに近い。なにしろ、ウィルバーは今すこぶる腹の調子が悪かった。胃袋が反乱を起こさんとしているばかりか、なんだか頭もぼうっとしている気がする。機嫌が斜めを遙か通り越しているのはそのせいだ。
「あ、なんかごめん?」
「……別に良いけどさ」
ほら飲め、とハーブティのカップをセドリックの鼻先へ突きつける。柔らかなレモンバームの香りに微笑んで、同僚はのんびりとカップをウィルバーの手から受け取った。その表情は、変わらず淡く微笑んでいる。――むかつく。
「何にやけてるの、気持ち悪い」
「え、にやけてるか?」
「しまりがないよね」
「うっ……ひどいなぁ。そう言うお前はなんか、機嫌悪くない」
「終日ひどいハーブティの試飲をさせられてれば、体調も機嫌も急転直下だよ――昨日の話だけどね」
「あー……部下の調合?」
「今期の新人はそれでもましな方なんだけど……くっそ」
悪態をつきながらソファの肘掛けにもたれると、横から手が伸びてきてぽんぽんと背を撫でられた。ぎょっとして振り向けば、ちょうどマグカップを口にしたところだったセドリックと目が合う。
「なに」
「なにって、つらそうだなと」
「いきなりなに」
「……いつもつらいとき、やってくれるじゃん。それだけ」
ふわふわ、柔らかい仕草であやされて、ウィルバーはクッションを抱えたままふくれる。何だ、ここのところやたらと余裕じゃないか――喉の奥で、小さくそんな悪態をついた。
どんなに頑張っても追いつけない小憎たらしい相手、好敵手と言ってもいいセドリックの面倒を見るのは、ひとえに彼の不調の原因が、ウィルバーの兄であるからだ。レスターに何度となく泣かされる同僚の背をさすり、お茶を淹れて寝かしつけたのは、一度や二度でない。薬に耐性のない彼のために、穏やかな効き目のハーブティを調合し、朝夕投与し続けてきたのも、それが理由。
ほんの僅かな申し訳なさを言い訳に、ここ数年世話を焼いてきた。だが、セドリックが元気を取り戻しているなら話は別だ。遠慮なく嫌ってやることができる、有難い。
「なんだよ、やたら機嫌がいいじゃないか。それなら要らないね、それ」
「えっ、やだ、やだ。お前のお茶飲まないとなんか起きた気しない」
引ったくろうと手を伸ばせば、セドリックはマグカップを大切に持って逃れる。ほんの少し楽しげな新緑の眼から、あれほどウィルバーの罪悪感を煽った陰はいつしか薄れていた。いずれは、本当に朝晩のハーブティが不要になるかもしれない。内心だけで安堵しながら、ウィルバーは好敵手にクッションを投げつけた。次いで聞こえた悲鳴は、もちろん無視だ。
* * *
「セドリック先生、楽しそうですね」
午前十一時のおやつの時間、るんるんと焼き菓子をかじる恩師に声をかければ、彼は実に意外そうな体で小首を傾げた。"なにそれ"と言わんばかりの反応だが、アイオラノヴァからしてみれば先程言ったとおりにしか見えないので仕方がない。
セドリックの指先につままれた、食べ応えのありそうな硬い質感のクッキー。ごくありふれた菓子をざくざくとやりながら、彼はやたらと嬉しそうな顔をしていた。その理由は、付き合いの長い巫女でさえとんと思い当たらない。
「それ、そんなに美味しいんですか」
「んむ? おいしいよ。素朴な感じ」
「そんなに夢中になっていると、気になりますね。ひとつください」
「え、え、これはだめ」
さっ、と身体で隠すようにして菓子を遠ざけられ、アイオラノヴァは目を丸くする。セドリックの斯様な反応は珍しい。そもそも彼はなにかを独り占めするような質ではなく、分けてくれと言えば半分をぽんとくれることだって珍しくない。それを加味すると興味は増すばかりで、巫女もらしくなく食い下がった。
「えっ、どうしてですか」
「こ、これはだめ。だめなんだよ」
「独り占めですか先生」
「他の、他のあげるからっ。勘弁してくれノヴァ」
結局数分の押し問答の末、ひとつといわずいくつかの菓子がアイオラノヴァの手元に押しつけられた。しかし、結局セドリックの食べていたあれは手に入らずじまいだ。謎だ、謎すぎる。
別段特別なものには見えなかった、むしろどうも形は歪で、ほろほろと角が崩れていたような。ラッピングもプロのものとは到底思えない仕上がりで、箱も何もなく茶色い紙の包みだけ。いったい彼はあれをどこで手に入れ、なぜあんなに大切に食べているのか――おや、もしかしたら。
「……誰かの手作りか……?」
思い当たるとそうとしか考えられなくなってきて、アイオラノヴァは研究室の窓辺で菓子を楽しむ恩師を二度見する。その表情はいつになくはしゃいだ様子で、一口かじるたびまるで愛でるかのように菓子を眺めていた。申し訳程度に結ばれた蒼のリボンを、時折くるくると指先でいじる彼の仕草は、菓子の糖分をそのまま発散するかのように甘い気がした。
* * *
「……いいこと、あった?」
いつもよりハイペースでペンを走らせる同僚を眺め、チェリッシュは控えめに声をかけた。うん、と頷きながらも、セドリックの手許でインクの軌跡は止まらず刻まれていく。逆さに見える文字の羅列を解読するに、どうやら研究論文のようだ。前回の学会発表では、たいした進展がないと苦い顔をしていたから、これは良い兆候である。おまけに、論文を書いている本人がカリカリした表情をしていないのだから、尚更。
「――さっき、アイオラノヴァに会ったわ」
「お、そうなの。おやつあげたからご機嫌だったんじゃない」
きりの良いところまで書いたのかペンはホルダーに戻され、新緑の眼がチェリッシュを見上げる。にんまりと微笑む彼は悪戯な子供のような顔をしていて、つられるように彼女も唇の端を持ち上げた。
「控えめに言って、拗ねてたわね。先生がクッキーを独り占めしてたって」
「あっ。あいつ、ちゃんとお菓子あげたのに」
ぷぅ、と彼は頬をふくらせ、チェリッシュはまた微笑む。彼の少年じみた仕草は素直で、昔から好ましかった。大人になって世慣れれば、大抵の人は多少ひねくれるものだが、彼にはそれがない。それが逆に心配になることもしばしばだ。少しは彼が相棒と呼ぶどこぞの騎士を見習えば良い――そんなことを思うのは、間違っても本人には言えない。
「なんでも、貴方が独り占めするのは珍しいからですって。どれだけ特別なものなんだろう、って気にしてたわ――」
「特別って、……別に。貰い物なだけで」
「――気になるひとから貰ったんじゃないかって」
「ぶふっ」
何の気なしにアイオラノヴァの推測を口にすれば、口にしかけていた紅茶で彼はむせた。けほけほと咳をするセドリックの背をさすりながら、チェリッシュは目を丸くする。
「あら……なあに、図星」
「チェリッシュまで、何言うんだよ。……ったく、あいつ」
軽くかぶりを振り、赤い顔で彼は呻いた。ふわふわとした胡桃色の毛先までなんだか照れているようで、チェリッシュは首をかしげる。
「……気になるひとなの」
「違うんだったら」
「違うの?」
首をかしげてみせると、柔らかそうな胡桃色の髪をがしがしと乱して、彼は嘆息する。
「友達だよ。久しぶりにつくって形もそれほど良くないから、ひとりでこっそり食べろって言われてて」
「あら、失敗作?」
「や、味はめっちゃうまいよ。無理言ってもらってきたようなもん」
無理を言ってもらってきた、それは相手が気になるからではないのだろうか。彼にしては珍しい行動に思えて、チェリッシュの中で懸念が確信へと固まった。そうか、浮いた噂のなかった彼が、ついに誰かに想いを寄せたか。――それが終ぞ自分でなかったことには、一抹の寂しさを覚えるが。
「もー、ノヴァのやつませたこと言いやがるんだから」
「ませたって……セドリック、彼女も二十一よ」
「そうだった」
彼のあまりにもすっとぼけた言葉には、どうにも堪えきれず吹き出した。
* * *
「なぁ、三時間くらいロンドンに行きたいんだけど、良いか」
テーブルの向こうで昼食を平らげる相棒に声をかければ、彼はリスのように鶏のカツレツを頬張りながら面を上げた。あまりにも無邪気なその表情に、レスターはつい小さく笑う。思えば最近、セドリックはこんな顔をすることが増えたような気がする。不思議なことに、睦み合う回数自体は減っているのだが――今までは何かあるとすぐ彼はレスターの許に来て、愛を乞うことが当たり前だったので、騎士としては内心複雑だ。それだけ仕事が充実しているのかもしれないと、相棒としてのレスターは安堵するが、恋人としての想いはそう単純にはいかない。
小さく首をかしげながら、セドリックは水で口の中のものを飲み下す。最近彼に触れていないからか、こくんと喉仏が動く様さえやたらと鮮烈に見えた。幼い頃と何ら変わらない、やや年不相応な仕草で相棒はまばたきをひとつ。
「ロンドンに行くの? 夜勤明けなのに」
「ああ、この前買ってきた紅茶があったろ。あれ気に入って――どうせすぐには寝らんないしな」
「そう? じゃああれも買ってきてよ、あのチョコレートとスコーン」
「ん。おまえ、あれ好きだな」
「へっへへ、気に入っちゃった。ブライトンのやつ、センス良いよな」
やっぱりレスターが貴族だって読んだの、あれ当たりかもよ。そんなことを言いつつ、セドリックは朗らかに笑う。その表情があまりにも可愛らしく見えて――間違っても本人には言わない――他人のことを話しながら斯様な笑顔をみせる彼に、少しばかり苛立ちに似た気持ちを覚えた。
アシュレイ・ブライトン、無彩色の髪に眼ばかり空のごとく鮮烈だった、銀細工のような青年。その身体は乱暴に扱えば折れそうなほど華奢で、細い指の先まで張りつめた佇まいは、神経質以外のなにものでもなかった。見たところ役人のようだったから職業柄なのだろうか、本来はそこまでぴりぴりした人物ではないのかもしれない――相棒から話を聞いてそうは思うものの、どうしてここまでセドリックがあの青年を気に入っているのか、その理由はとんと分からない。
「それにしても……」
ならばいっそ、言及してしまうか。自然に首を傾けて、レスターは半ば呆れたような、半ば感心したような表情をつくってみせた。
「なぁ、おまえあの気難しそうな奴と、どう仲良くなったの。そもそも話しかけるのだって躊躇いそうなもんを」
騎士が問いを口にすると、向かいでセドリックのまつげが不意をつかれたように僅か震えた。ああ、あんな顔でもこいつはかわいい。他の者にその注意が向いていると思うだけで、腹の底に仄暗い靄が凝るようだった。
「どう、仲良くなったって……ふつうに声かけてさ。裏路地から出てったら、たまたま近くにいたから」
「まじで。あんな近寄り難そうなのに」
「ぱっと目をひいたからさ。――服装もちゃんとしてたし、変な奴じゃなさそうって思って」
肩を竦めて、セドリックは皿に残っていた付け合わせを口に放り込む。無難な理由、自然な受け答え。だが隠しきれないその癖を目に留めて、騎士の薄い唇は完璧すぎる弧を描く。
ほど金に近い淡いまつげ、相棒の顔におちたその影と反射光が、新緑の瞳の傍でちらちらとしていた。
*
「じゃあ、五時頃でいいか?」
「ああ、頼む」
腰から下げたポーチを確認しながら、レスターは頷く。うん、と軽く請け負った相棒は、相変わらずの鷹揚な仕草で財布を寄越してきた。先日ふたりで稼いだ青果市場での売り上げを詰めこまれ、小さな袋はずしりと重い。
「なんかパシるみたいで悪いけど」
「や、ついでだ。気にするなよ」
この程度でこいつの英国行きを減らせるなら、安いものだ。とかくセドリックは最近あの国に入り浸りすぎる。壁の向こうへ渡る術を彼が発見してから、はや半年。思えばその時期からだ、休日であるにもかかわらず、相棒がレスターの誘いをやたら断るようになったのは。
――あの国に、何かある。
「じゃあ、三時間後に」
「ああ、三時間後に」
何の疑いもなく手を振る相棒に頷いて、レスターは開かれた壁に飛び込む。慣れないスモッグのきな臭さに包まれながら、騎士は口許に浮かべたそら笑いを消し、薄汚れた煉瓦の路地裏に舌打ちした。
霧の都の曇天は、相も変わらず霞んで陰気だった。