「よしよし、ウィル。おまえはほんとうに兄さんがだいすきだねえ」
兄と一緒がよくて、同じようにやりたくて、できなくて。繰り返す失敗に憤慨して投げ出したおもちゃの剣を拾い、母は笑顔であやしてくれた。
物心ついたときから、追いかけてきた背中。同じ色の髪、同じ色の眼。それが随分気に入っていて、気がつけば兄と同じ左利きになっていた。苦労した覚えはなかったから、きっともともと遺伝的にそうだったのだろう。似ていると言われることが嬉しくて、兄がしていたことは何だってやりたがった。選ぶ服も、好きな食べ物も、将来の夢だって同じ。それを兄は鬱陶しがらず、後を追っていけばいつだって待ってくれていた。
――ウィル、おいで。ウィル。
明るい笑い声、兄が呼ぶ名が耳に残る。そっくりな青の瞳は、深い海の色をしていた。
Rise and Shine, Fallen Star.
「――ウィル。ウィル」
呼ばれる声に、意識が浮上する。眼鏡の横から指を入れて目を擦ると、頬杖をついていた肘にじんと血が通う感触がした。ずれたフレームを押し上げれば、物珍しそうに見つめる母と視線が合った。
咳払いして、ウィルバーは椅子に座り直す。右手に握っていたはずのペンは、いつの間にかこぼれ落ちていたらしい。何の奇跡か、目前の書類にミミズがのたくっていなかったのは救いだった。
「……失礼、母さん。うとうとしたらしい」
「めずらしいね、おまえが。調子でもわるいのかい」
「昼を食べ過ぎたんだ、きっと。キリのいいところで珈琲でももらってくるよ」
寝ぼけた身体に活を入れようと、ひとつ伸びをして肩を回す。城の業務は目下休暇中でストップしているが、商団の仕事はまだ休みからは程遠い。流石に城勤めとあっては商談に出るわけにもいかないが、帳簿の計算は未だにウィルバーの役目だった。そこに文句はない、こなした業務の分だけ賃金の分け前はあるし、なにしろ家業がこれなのだ。いずれ城を退職すれば、こちらに戻ることになる。現職から許可はおりているのだし、実務経験を積んでおくに越したことはない。
目の前には伝票の束が山をつくっていて、ついため息が出る。薬学も経理も、求められる緻密さにおいては似通うところもあるが、しかしこの量は。自分の担当する品々だけでもこれかと思えば、商団の規模を改めて思い知らされたようで、笑えもしない。
息子のため息に、母は苦笑して髪に手を伸ばしてくる。いい大人が照れくさいがはねつけるには身体が重く、ウィルバーは黙って撫でられておくことにした。
「どうせなら珈琲ついでに休憩しておいで、根を詰めることもない」
「いいの。これ、今日が締めでしょう」
「アシュレイに応援を頼めばいい。あの子、二時過ぎからは手が空いていたはずだから」
「アシュレイか……」
数ヶ月前から商団に身を寄せている、同僚の恋人。華奢な見た目どおり力仕事には向かないものの、彼は恐ろしく頭脳明晰で几帳面だ。見れば伝票には彼の筆跡もある。本人が扱った取引ならば、それを処理するのも造作ないだろう。あとからウィルバーが確認すれば問題はない。
「でもいいの、僕のところで拘束しちゃって」
「適材適所さ、他はアシュレイでなくてもまわせる。誰かうだうだ文句つけたら商団長の指示だと言っておしまい」
母さんがそれでいいなら、とウィルバーは頷く。若干職権濫用な気もしなくもないが、母の申し出は有難かった。
「じゃあ、珈琲もらってアシュレイをつかまえてこようかな」
よっこらしょと席を立てば、ぞんざいな手つきで撫でられる。もう頭ひとつ分は母の身長を超したというのに、なかなか斯様な子供扱いは抜けない。
「そうおし。いい子だ、ウィル」
「やめてよ、母さん。大の男に」
今度こそウィルバーはひょいと母の手をかわす。勤務時間中に商団長が息子とじゃれているとあっては、従業員から不満も出るやもしれない――というのは単なる言い訳だ。これをたとえばセドリックに見られて、微笑ましげな顔でもされようものなら恥ずかしさで死ねる。彼自身は親を亡くしているので、お母さんと仲良くていいねと言われたところで思いのままに蹴っ飛ばすわけにもいかない。代わりに事態を未然に防ぐべく、母に釘をさしておく。
「もう僕だっていい年なんだから」
「ほんとにねえ。レスの後を追っかけてたまんまる坊やはどこへ行ったのやら!」
「……まんまるも坊やも追っかけも、かなり前に卒業したよ。あとでね母さん」
「はいはい」
ひらひらと手を振る母を後目に、ウィルバーはマグカップをとって執務室を後にする。背後に感じる微笑ましげな視線は、意図的に無視をした。
――愛おしむような母の言葉は、夢見と相まって意識の片隅に重苦しく残った。
* * *
マグカップを弄びながら、食堂を目指して廊下を行く。観音開きの扉を押し開けた先には珈琲の香りが立ちこめていて、先客がいることを知らせた。
カウンターの向こうに、黒髪を後ろへ撫でつけた人影。さては兄も気分転換か。窓の外を見ればどんよりと灰色で、今にも泣き出しそうな空模様だ。今日のような陽気ではどうしても気分が優れないに違いない。
「レス」
「おう、ウィル。おまえも休憩か」
「うん。僕も珈琲もらえる?」
「いいとこに来たよ。一杯も二杯も同じだ」
コーヒーミルに豆を数粒足し、レスターはまたハンドルをごりごりと回し始める。ふわりと濃くなる芳ばしさに、やはり兄に合う香りだなとウィルバーは思った。今となっては、よく似た兄弟という印象をふたりに抱く者は少ない。片や快活な騎士、片や内気な薬師。珈琲の芳香が似合う兄と並ぶのは、薬草の匂いが染み着いた弟だ。
「さては帳簿の締めに追われてるところか」
「そういうレスは要更新の契約にかかる文書づくりかな」
「ご明察。でも俺はそろそろ終わるところだよ……手が要るなら、そっち行くけど」
「大丈夫、さっき商団長どのが他から人員を割いてくれたところさ」
「相変わらずウィルには甘いな、おふくろは」
くくくと笑って、レスターは挽いた珈琲をフィルターに移す。火からやかんを下ろす間に、兄はあらかたの準備を整えてくれた。ここから先はウィルバーの方が巧い。粉を熱湯で湿して蒸らし、滴る褐色の滴を見つめる。
「でも今日の面子にいたっけか、仕訳なんか切れる奴」
「アシュレイだよ。彼、なんでもできるよね。一度で覚えてくれるし」
彼に帳簿のつけ方を説明したのは、一度きりだ。珈琲に湯を足しながらウィルバーは何の気なしに口にして――兄の雰囲気が変わったのに気がついた。商人らしくなんでもない風を装っているが、流石に血を分けた兄だ。その眼の色が氷のような冷たさを帯びたのは、一目瞭然だった。
「ああ、あいつか。拠点にひとりずつ置いておきたいくらいの奴だよな」
「各店舗にひとり、みたいな。過労死させちゃうね」
兄の虚勢を意図的に無視して、ウィルバーは珈琲を淹れ終える。あたためておいたマグカップから湯を捨てて、均等に一杯ずつ。
余計なことを兄に言ったかとは思ったが、今更話題を逸らすのもおかしな話だ。兄の恋敵、セドリックの心をさらった者。だがアシュレイは誠実で、不器用ではあるが愛情深くて、同僚は兄といた頃よりよほど幸せそうに見える。
「今日、見かけた? 二時頃には手が空くって聞いたんだけど」
「さあな、昼には会わなかった。仕事がずれ込んでるから昼飯はとっといてくれみたいなことをちびが報せに来たけど」
「アシュレイがひとを遣るんだから、よほど忙しかったんだね」
相槌をうちながら、ウィルバーは挽いた珈琲の後始末にかかる。ごみ箱を開けながらふと眺めた窓の向こう、中庭に話題の青年はいた。
兄の言ったとおり遅い昼食をとっていたようで、彼の目の前には空になった皿がひとつ。その隣には、同じく食事を終えたばかりらしいセドリックがいた。親しげに寄り添いながら、彼らは食後の紅茶を楽しんでいるらしい。アシュレイが言ったことがなにやら面白かったらしく、同僚が陽気に笑うのをウィルバーは見た。
セドリックのよく通る声は、窓を通してかすかに厨房まで届く。視界の端で、兄が密かに唇を噛んだ。
「……ひどい顔だね。レス」
ぽろりと、本音がこぼれていく。図星をついたようで、兄は取り繕うのは無駄だと察したようだった。すいと眇められた青、ウィルバーと同じ色の眼に宿るのは隠そうともしない苛立ちだ。
「大きな世話だ」
「そうかな」
「おまえに関係のあることでもない」
「そうでもないよ。残念ながら、あいつの担当薬師は僕だから」
差し出した珈琲は、一瞥しただけで黙殺された。仕方なくウィルバーはマグカップをカウンターに置く。こうして同僚にも、幾度となくカップを差し出してきたのだ――中身は珈琲でなくハーブティ、精神を安定させるための薬であったが。
「記録をみると、セドリックの状態はかなり改善している。おおよそ一年前から、最近では急激にね。ハーブティは一日一回でよくなってるし、そろそろ要らなくなるだろう」
「……そりゃいい」
「僕はね。知っているんだよ、兄さん」
穏やかに告げれば、露骨に兄の眉が寄せられる。当然だろう、弟に斯様な事情が筒抜けとあればいい気はしないはずだ。だがそれはお互い様である。正直ウィルバーだって兄の色恋沙汰に干渉する気は毛頭ないが、飛んだ火の粉は払わねばなるまい。なにしろセドリックの状態は直接ウィルバーの仕事に関わってくる――患者としても、同僚としても。
おまけにアシュレイが商団の業務にまで関わっている今、跡取りとしての職権でなにかしらやらかされても困る。どうせ話題にのぼったのだし、牽制しておくいい機会だ。
「けっこうセドリックに好き勝手していたみたいだね」
「――おまえ」
「知りたくて知ったんじゃないよ、あいつが魔素混触で寝込んでたところに出くわしただけ。……誰が好き好んで兄貴の性事情に首つっこむのさ、おぞましい」
常は温厚な弟のらしくない暴言に、レスターは言葉が喉につっかえたような声を出した。日頃なにごとも穏便にしていた甲斐があったなと、どうでもいいことをウィルバーは思う。内気で温和しい、真面目な薬師。そう周囲に思われていることは知っている。だが本質を見れば、兄とは嫌になるほどよく似ているのだ。棘がないわけがない、毒がないわけがない。
――だからこそ、わからないわけがない。兄の苦しみも、同僚に向けた愛情の深さも。愛しい者を生に繋ぎ留めた責任が、周囲が向ける期待の大きさが、重くて重くて潰れかけている現状も。なにより、純粋だったはずの想いがどうしようもなく変質していったとき、それを一番に恐れたのが誰かなんて。
わからないわけがない。わかっているから、兄のために薬草の研究を続けている。だというのに、口から出る言葉はねじ曲がって、兄を責める。そんなところまで似なくていいのにと胸の奥で自嘲しながらも、手っ取り早く当面の事態を収める策を紡ぐのだ。
「あれを見ればわかるだろ、兄さんがどれだけだめだったかなんて。あいつが今、どれだけしあわせかってことなんて」
「……黙れ」
「もうよしなよ。セドリックは正しく選んだと思うよ、僕も」
「――出ろ。ウィルバー・セージ」
圧せるのはここまでか。低く唸る声に肩をすくめ、ウィルバーは従順に踵を返した。あれでは優しく宥め好かそうが、口汚く罵倒しようが、それこそ正論を振りかざそうが、言葉は届きようがない。それほど愚かでもない兄のことだ。頭で理解していても、気持ちがついてこないのだろう。本人が理解を拒絶するなら、説得など意味を持ち得ない。
彼らは互いを誰より知っていた、はずだった。レスターとセドリック。革命の"彗星"と呼ばれたふたり。幼なじみで、親友で、相方で、深く想いを寄せ合った者同士――の、はずだった。いつの間にかセドリックに魔術の出来は追い越されて、兄と肩を並べるのは彼になって、目標としていた席を奪われたことを業腹に思いもした。だがいざ兄の隣が空いてみると、涼しい顔で相棒面をしようと言う気も起こらない――行き場のない想いに自家中毒を起こして、憔悴しきった兄では。
憧れたのは、届きたいと願ったのはセレスティア王国の氷星。あのような剣士になりたいと、それが叶わぬならせめて、あのように周りに希望を与え導く者になりたいと――いつかまたその夢を手にしたいと願うなら、まずは堕ちた氷星を掬い上げるところから始めなければならない。それが手に余ることと判っていても、椅子を蹴倒して席を立つ選択だけは、幼い日の己が拒むようだった。
(かわいそうな兄さん。あのひとにはかなわないのに。……張り合おうとすることさえ、意味がないのに)
熱を失ったマグカップを手にして、ウィルバーは中庭へと足を向ける。兄にセドリックは救えず、セドリックに兄は救えなかった。それどころか、ふたりはぐるぐると巡りながら、互いに互いを引きずり下ろすようだった。
何事も、それが能わない者に期待をかけるのは間違いだ。だからセドリックだけでも幸せに過ごしているならそれでよしとして、ウィルバーは足掻き続けるしかないだろう。決定打にはならなくとも、時間稼ぎはできる。むしろそれは得意分野だ、戦闘においてもウィルバーはいつだってそうだった。我ながらどこまでも中途半端で嫌になるが、どんなに辟易したところで状況は変わってくれない。
誰でもいい、何だっていい。それが己であろうとなかろうと、人であろうとなかろうと。男であろうと女であろうと、友情であろうと愛情であろうと。ただ兄を支え、その背の重みを分け合ってくれるものがあったなら。手遅れになる前に、現れてくれたなら。
模索をやめなければ、諦めなければ。きっといつか、また憧れになる。きっといつか、前を行く背中が振り向いて、あの頃のようにおいでと呼んでくれる。――呼んでくれる、だろうか。
「……帳簿――アシュレイを」
苦くつぶやいた言葉は、あまりにも日常的すぎて気が重い。素のまま吐き出した己の声はやはり、どこか兄を彷彿とさせて――不都合な事実にうんざりとかぶりを振り、ウィルバーはぬるい珈琲を一気に飲み干した。
輝ける氷星は今いずこ
(もう一度立って、輝いて、氷の星は僕の憧れだったのに!)