あと十分、あと十分で帰ってこなかったら、ハーブティでも飲んでみよう。そう考えながらきつく毛布にくるまったところで、静かな靴音が廊下で聞こえた。ほんの僅か踵を浮かせた、軽い足取りが部屋に近寄ったと思うと、かちゃん、部屋の鍵が回る音がやけに大きく響く。枕から首を曲げて戸口を見やれば、忍び足で入ってくるセージグリーンの上着と、ふわふわ揺れる淡い胡桃色。

「――セドリック」
「ん……アシュレイ? ごめんな、起こしたか?」

 戸を閉めるその背中が、いたずらの見つかった子供のようにびくっと震えた。ベッドを振り返り問うセドリックの言葉は気遣わしげで、喉のつまりそうな心地に沈黙すれば、不思議そうに彼は首をかしげる。何も応えず毛布に潜ると、部屋の向こうで微かに苦笑する声がした。

「ごめんって……急に呼ばれちゃったんだよ。怒ったのか?」

 きぃ、かすかに軋みながら、クローゼットの戸が開く。からからとハンガーのふれあう音が響き、ささやかな衣擦れが耳に届いた。程なくしてセドリックの気配がゆるりと近寄り、そっと肩に手が置かれる。促されるままベッドの片側に寄って、恋人のために場所を空ければ、すぐにぬくもりが隣に滑り込んできた。息遣いさえ感じられるほど間近で、くすりと甘えて笑う声。

「なぁ、こっちむいてよ――なに、香油使ったの?」
「……む」

 返事になっていないような声を出すと、また背後で彼が笑った。伸びてきた指先が手首を取って、あやすように香油の感触が残る肌をなぞっていく。そのままぎゅっと抱き込まれ、シャツ越しに彼の体温がじんわりと伝わって、ようやく溶け出す緊張に身体の力を抜いた。くんくん、かすかに鼻を鳴らした恋人が、嬉しそうに頬を寄せてくる。

「ふふー、やっぱり。いい匂い」
「……セド」
「ふへへ、俺がいなくて、そんな寂しか――」

 そのまま言葉を切ったセドリックに、今度はアシュレイが首をかしげる番だった。肩越しに振り返れば、軽く眉をしかめた恋人の顔。絡め合った指にきゅっと圧をかけられて、彼の肌からぬくもりが染みこんでくる。強ばった手がようやく感覚を取り戻す心地に、安堵して息をつく――しかし、吐息と共にアシュレイが吐き出した不安を、そっくりそのまま吸い込みでもしたかのように、恋人の表情はみるみる気遣わしげになり。

「……アッシュ。どうしたの」

 とうとう紡がれた一言に、アシュレイは深く息をついた。もう隠しきれないと悟り、恋人に向き直ってその胸元に身を寄せる。

「……どうしてわかった」
「判らないわけないだろ――がっちがち、身体。手も冷えて……」
「…………」
「……誰か、来た? あいつ?」
「――いや」
「じゃあ、なんでさ……」

 彼の腕が背中に回って、ゆっくりと頭を撫でていく。するするとあたたかな指先が滑って、慈しむように髪を梳き、毛先を絡めて遊んで――慣れた彼らしい仕草に目を細めれば、前髪を掻き上げられて、額に口づけが降ってくる。促す新緑の眼差しに応え、しぶしぶ呟いた。

「…………わるい、ゆめを」
「夢――どんな?」
「………………」
「アッシュ」

 促すように、セドリックの手がそっと背をさする。決して急かさず、ただ言葉を待ってくれるやさしい所作。まだ言葉も話せないほど幼い頃、まだこの頭のことがひとに知られるより以前、母と呼んだ女性が似たようなことをしてくれた、ような。ああ、今となってはもう遠い昔だ、存在しないも同然の、懐かしささえ覚えない過去。脳裏を過る銀髪の影から、目の前の恋人に意識を戻して、そっと目を上げる。

「ん?」

 視線が合うと、困ったような新緑の眼に微笑みかけられて、胸の奥がきゅっとするような心地がした。違う、恋人は彼らとは違うのだ、彼はけして離れていったりしない。見るものも聴くものも触れるものも全て、完全に記憶するこの頭を、異常ではなく才能だと抱きしめてくれた彼。かといって曲芸のようなことも要求せず、ただひとこと、"じゃあアッシュの記憶はこれから俺ばっかだね"なんて、甘やかに未来への期待をくれた彼。
 もしその言葉を覆すような夢を見たと言えば、セドリックは怒るだろうか、哀しむだろうか。だが促すようなあたたかい眼差しにはどうも逆らえず、ぽつりと言葉を紡いだ。

「……あなたが、いなかった」

 震える声を制御しきれず、絞り出すように告げる。ただのひとこと、しかしそれだけでセドリックは察したらしく、それ以上の追求を飲み込んだようだった。そっか、またなんだ。そうぽつりと恋人が呟いた直後、背中に回る腕が強ばるように力をこめて、アシュレイは思わず彼の頬に手を伸ばす。これだから言うのを躊躇ったのだ、彼はやさしすぎて、まるで自分自身のことのようにこの感情を受け止めてしまうから。恋人の胸元に顔をうずめ、頬に手を置いて、言い聞かせるように囁く。

「だいじょうぶ。大丈夫だ――ただの夢だもの」
「大丈夫って……大丈夫に見えないよ、アッシュ」
「…………」
「せめて俺を見て、言ってよ。なぁ……」

 ああ、ごまかしは利かない、斯様に聡いうえ、日頃からよく見ていてくれる彼には。恋人と互いを称するようになった頃ならばともかく、並んで眠るようになってだいぶ経つ今となっては、到底。仕方なく顔を上げるも、まだ新緑の眼を見返すことはできなくて、ランプの灯りを受けて金に光る彼の毛先を、ただ眺めるだけ。

BACKIKH TOPNEXT