My Beloved Shortbread.
さくさく、さくり。静寂の満ちる部屋に、やや間抜けた音を響かせて、セドリックは焼き菓子をかじっていた。口の中にはほんのり塩の利いた甘さ、眼前には愛しい恋人。新雪のような美貌の彼は、こちらには目もくれずひたすら魔道書のページを繰っている。
さくさく、さくり。恋人の隣、手を伸ばせば届く位置に置かれた小さなバスケットから、またひとつクッキーをとり、食べる。ごく素朴なそれは、アシュレイの故郷ではポピュラーな、ありふれたお茶菓子だという。言われてみれば確かに飽きない味だ。こうして彼を眺めながら、もういくつそれを口にしたかしれない。
さくさく、さくり。歯の間で、もろく焼き菓子が崩れる――それと同時に、ぺらり、ページを繰った恋人が、本に目を向けたままようやく言葉を発した。
「気が散る、セドリック」
にべもないその一言に、セドリックは思わず唇をとがらせた。
「なんだよ。お菓子食べるくらい許してくれよ」
「そうじゃない」
むう、と擬音がつきそうな仕草で軽く頬をふくらせ、アシュレイは魔道書からセドリックへ、ついと視線を上げた。軽くとがめるように、夜空色の眼が細められる。
「見すぎだ。そのうち穴が空くぞ」
「……俺の視線くらいで穴空くなら、アシュレイなんかもう消えてなくなってるだろ」
やっと声をかけてくれたと思ったのに。その口調こそ冗談めかしているが、あまりにそっけない恋人の物言いに、セドリックはわかりやすく拗ねた返事をした。
毎日恒例になっている、夜の勉強会。恋人の顔を見る口実としてはこの上ないし、実際彼の役にも立っているのだろうが、今日は金曜で明日は休みだ。少しくらい机から離れて、甘い展開になっても――そう期待のひとつ抱いたところで、誰も魔導師を責めることはできまい。だが折角ふたりきりだというのに、肝心のアシュレイが構うのは本ばかり。おまけに今読んでいる単元によほど興味を引かれたらしく、いつもより長く没頭している。とんだお預けもいいところだ。
腕を枕にして突っ伏しながら、セドリックが恨みがましい視線を向けると、アシュレイはひとつ嘆息して本を机に置いた。かたん、とハードカバーの背表紙が鳴る。
「見ているのは認めるんだな」
「だって目に入るもん」
「そういうことじゃない……」
「だって暇なんだもん」
駄々をこねるような口調を自覚するも、実際こうしているのはつまらないのだから仕方がない。そもそもアシュレイは勉強熱心すぎると、魔導師は小さく鼻を鳴らす。平均して四年はかかる課程を、諸々省略したとはいえ一年でこなし、見事クイーンズ・ブルーの制服を纏うまでになったのだから、彼の熱意と優秀さは推して知るべしである。それが自分の隣に並ぶため、自分を少しでも守るためと知っていればこそ、セドリックの喜びもひとしおだ。
だが、その目的はとうに果たされていると言っていい。体調を崩すほど根を詰める必要も、力不足と嘆く理由も、近衛に入るほどの実力をつけることで、彼は全て払いのけてしまった。そういうわけなのだから、休みの前の夜くらい、勉強の代わりに恋人を構ってくれたっていいではないかと思うのだ。どのみち、日々こなす言わばノルマの分は、もうとっくに終わっているのだし。じーっと恋人を眺めれば、彼はまたため息をひとつ。
「僕を見て暇が潰せるのか」
「つぶせない、かな」
「なら、あなたも何か読むとか」
「うーん、やだ」
「……セドリック?」
「やだ。俺、つまんない、アシュレイ。かまって?」
手にしていた長方形の焼き菓子を、恋人の唇へつきつける。いきなりのことに、軽く瞠目する蒼が愛おしい。なぁ、と笑いかけると、やや呆れたように彼は目を細め――さくさく、さくり。指先で支える焼き菓子に、確かな振動を感じて、セドリックはにんまりした。
手からショートブレッドを口にするアシュレイは、なんだか小動物のようだ。ひとたび剣を握り、銀のような声を響かせて魔術詠唱を行えば、彼は同僚の誰にも劣らぬ立派な近衛騎士である。だが、こうして長いまつげをふせながら、ちまちまとクッキーをかじる姿を見ていると、いつもの怜悧な印象はどこへやら。セドリックの頭に浮かぶ、今の彼を形容するに相応しい言葉は、"かわいい"の一言を残してすべて思考の彼方だ。ふへへ、とついしまりのない笑いが口をついてでる。焼き菓子から視線を上げ、恋人が軽く目を細めた。
「なんだ、セドリック」
「んー? かわいいなぁ、と思って」
「何を言い出すやら」
照れ隠しか、手から食べていたクッキーをそのままえいっと口で奪って、アシュレイはそっぽを向いてしまった。ランプに照らされる整った横顔、揺らめく淡い灯りに銀の髪がきらきらとして、ついセドリックは目を奪われる。あぁ、やっぱり、きれいだなぁ。同じ年頃の同性に、斯様な感想を抱くのは、彼の魅力ゆえかそれとも愛ゆえか。きれいで、かわいくて、そのくせかっこいいなんて、おまえは俺をどうする気なの――内心で抱いた、苦情になっていない文句は、未だクッキーを咀嚼する恋人には届かない。行儀悪くもごもごと、口からはみ出させたまま食べる姿さえも、愛おしく思えてしまうのだから末期だ。
「なぁ、アッシュ」
愛称で呼べば、すいと視線がこちらを向く。相変わらずのつれなさ、だが条件反射のように、その頑なだった眼差しは少し和らいで。
「アッシュ、なぁなぁ」
「……セド?」
「明日、休みじゃん。今日はその辺にしようよ。んで、俺をかまって。今週ずっとばたばたしてたし、俺、さみしかったよ?」
かつては怖くて口に出来なかった、誰もが抱くこの感情。逢いたかったよ、さみしかったよ、俺を見て、かまって、愛して。一蹴されるのではないかと、嗤われるのではないかと――子供の頃はあれだけ容易く周囲に求めていたことが、求められなくなった日々。
しかし未だしつこく記憶の底に居座るそれも、アシュレイが手を伸ばしてくれたときから、もう過去になった。何を、と言うのも、ため息をつくのも、照れ隠しだとセドリックは知っている。斯様な言動とは裏腹に彼はいつでも手を伸ばして、その華奢な身体で精一杯抱きしめてくれるのだ。泣いていれば涙を拭い、笑っていれば頬をつついて、そうして共鳴するようにただ隣にいてくれるのが、その想いのなによりの証明。
だからこそ、同じだけのものを返したい。僕は恋をするとだめになるのかもしれない――彼が一度ちらりとこぼした、怯えるような一言が脳裏を過る。セドリックが彼を深く知るに至ったのは恋人になってからだから、平常の彼と比較する術はない。しかしそれでも、半ば神懸かりめいて優秀な恋人は、見方を変えればてんでだめであった。彼は目的があると没頭しすぎるようにみえる、それ以外は何も見えなくなって、自分の身を削るのにも気づかず邁進してしまうようだ。いくら甘えん坊で欲しがりを自覚するセドリックでも、愛しいひとにそれほど過剰な献身を求めはしない。否、むしろ、愛しいからこそ心苦しくて不安になるのだ。自分のために――自分のせいで、アシュレイが心身ともにすり減っていくような、そんな姿は見たくない。
だから今日も、己のさみしさにかこつけて手を伸ばす。そう言えばアシュレイが応えてくれると知っていて、不本意な休息を享受してくれるとわかっていて。彼に触れたいのもまた事実だ、そこに嘘偽りはない。だが、もし恋人に件の懸念をそのまま伝えれば、きっと彼はまだ大丈夫だと、全て抱えたまま微笑んでしまう。それでは本末転倒だ――ならば、少しくらい我儘と思われたって構うものか、この程度で彼が愛想を尽かさないことは、とっくに知っている。
「なぁ、アッシュ。あーっしゅー」
「……駄々こねり」
「……最近チェリッシュと言うことが似てきたよな、おまえ……?」
「的確だからだ。チェリッシュは正しい、大抵」
「ひでぇ……」
机の天板とお友達になりながらセドリックが拗ねてみせると、小さなため息が頭上から降ってくる。ついで、ぽんと軽い衝撃が顎に伝わり、目の前で教科書がいささか投げやり気味に閉じられた。視線を上げれば、相変わらず呆れ顔の恋人――だがその口許は、隠しきれない笑みに小さく緩んでいた。
「じゃあ手始めに、もうひとつお菓子をくれないか。甘えたさん」
銀のようなアシュレイの声が、楽しげに小さな要求を紡ぐ。気が抜けて甘さを帯びた、その愛しい音色に応えるべく、セドリックはにんまりと笑みを零してまたクッキーをひとつ手にした。
いとしのショートブレッド
(おまえを癒やせる俺でいさせて?)