Somewhere, Nowhere.
冷えた空の下、ひときわ強い風が吹いて、ウィルバーはコートの前を掻き合わせた。隣に佇む同僚から、ひええ、と小さな悲鳴が聞こえてくる。聖七夜も今日でおしまい、あと数時間もすれば、光がこの世に戻る暦。新しい年の始まりが、再びやってくるのだ。
見上げた空に月はなくて、星ばかり煌々と明るい。北の方角で燦然と輝く小さな光に、ウィルバーはひとつ息を吐き出した。隣でセドリックが同じようにしたらしく、視界の端で白く空気が渦を巻く。
「今年も終わりだなー」
「まったくもって進歩のない年だったね」
セドリックの言葉に頷いて、ウィルバーはやや投げやりに相槌を打った。数時間前に打った点滴の痕が、熱をもって疼く。今回テストした新薬のサンプルも、結果はどうもぱっとしなかった。
ウィルバーの言い草に、同僚は小さく苦笑する。そうかも、と頷くのは、彼にも思うところがあったからだろうか。
「大人になると、ほんと一年がはやいよな。一日はすごく長いように感じるのにさ」
「まったくだよね。今日が終われば、まったく同じような明日がくる。それを繰り返してるだけで、あっという間に一年なんて終了だ。来年だぞめでたいぞーってみんなはしゃぐけど、きっと来年だって、訪れてみればきっと同じなんだろうな」
小さく鼻を鳴らして、ウィルバーはコートの襟元を引き上げる。分厚い布地に鼻先までうずめれば、いくらか寒さはましになるようだ。ふわりと息を吐けば視界が煙って、眼鏡が真っ白に曇った。ろくに前が見えなくなり、同僚が小さく笑う声が耳に届く。
「あはは、ウィルバー、うける」
「くだらないことで笑うよね、きみも」
軽口を叩きながら、ウィルバーも唇の端を上げた。日だまりのような彼が笑えば、それは周囲に伝染する。大人になっても、それは変わらない。子供の頃から、どれだけ彼の引き起こす面倒ごとのとばっちりを食らっても、セドリックに対してずっと怒っていることは難しかった。
「……つくづく、不毛だよね」
そんな相手を前にして、愚痴めいた言葉が唇からこぼれたのは、夜勤で疲れていたからか、でなければ新薬の副作用か。特に感情もこめなかったその言葉に、セドリックが振り返る気配がした。
「今日が終われば、また今日だ。それが終われば、また今日。きっとなにも変わらない」
「ウィルバー?」
「いったいいつまで、こうしていればいいんだろうな。いい加減、飽き飽きするよ。ふらっとどこか、誰も知らない遠いところへ消えてしまいたい気分だ」
"はい、然様なら"。それで済んでしまえば、どんなに楽か。薬師長としての重責も、開発している薬の失敗も、弟としての立場も、自分の望みも妬みも不満も、全て総て捨て去って。そうして自由になれたなら、世界はどれほど輝いて見えることだろう。
職場政治も権力争いも、他人の愛憎劇に巻き込まれるのも、ひたすらにもうおなかいっぱいだ。自覚している限り、そもそもウィルバーはそういったものを好まない。のんびり自分のペースで、やりたいことをやりたいようにやるのが精神衛生上いい。だというのに、なにが悲しくてそれをまったく許されない日々を回すことになったのやら。
ため息をついて、熱さを訴える右腕を夜の空へ伸ばす。城のバルコニーから見える街灯りは、冬の澄んだ空気ではここまで届いて、きらきらと星のように光る。こんな微妙な気分でも美しいものは美しいものだな、そんなことをつらつらと思い――おもむろに右腕を掴まれて、相手の方へ顔を向けた。ちょうど点滴の痕の辺りを握られている、痛い。
「おい、何す――」
「ここにいてよ」
言い掛けた文句は、懇願する同僚の声に掻き消された。軽く相手を睨むと、怯えたような新緑の眼と視線がぶつかる。セドリックの手はわずかに震えていたが、その力は強く、放してくれる様子はなかった。
「……セドリック?」
「ここにいて。俺らといて。ウィルバー、どこにも行かないでよ」
掴まれたままの腕を、強く引かれる。次の瞬間にはセドリックが胸に飛び込んできて、その衝撃にウィルバーは思わずたたらを踏んで呻いた。大差ない体格の男が、前触れもなくタックルをしてきたのだ。いくらウィルバーがこっそり鍛えているといっても、真っ向からいきなり受け止めるのはつらい。
「……まったく。ばかなの、きみは」
小さくしゃくりあげる声が聞こえなければ、意趣返しに思い切り突き放していただろう。やれやれとため息をついて、ウィルバーはセドリックの顔にハンカチを押しつけた。――逃げられるものなら、とっくに逃げている。消えられるものならば、きっともうウィルバーはここにいない。それができないからこそ、煩わしいし、息がつまるのだ。どれほど腹がふくれていても、目の前のものを咀嚼して、すべて飲み下すしかないから。
「もしもの話で、なんて顔してるんだ」
「だって、ウィルバー、いなくなりたいって……」
「……誰かさんたちが僕に面倒ごとを押しつけすぎるからね。いくら僕の気が長いといっても、限度があるんだよ」
「うう」
ごめん、と腕の中から涙声が聞こえる。うっかりこぼした本音は全てがセドリックの責ではないのに、ひとまず一絡げに彼へとかぶせてしまったことに、ちくりと罪悪感を覚えた。せめてもの罪滅ぼしで、同僚の背中をぽんぽんと叩いてやる。まるで子供でもあやしているようだが、仕方がない。幹部となってから、親しいと言える人間関係はめっぽう減って、ウィルバーはいつか覚えたこれ以外にひとの慰め方を知らないのだ。
十二時の鐘が鳴る。ぼーん、ぼーん、と時を報せる低い音が、十二回。最後の音が空気を震わせて消え、遠く歓声が耳に届く。家々から人々が顔を出し、思い思いに魔術の光を空へ放った。色とりどりの灯りが、ふわりと漂いながら宙を舞い、月のない夜空へ昇っていく。
「――ご覧、セドリック。年が明けた」
ウィルバーが声をかけると、ようやくセドリックは顔を上げて街を見下ろす。その目の前へ左手を差しだし、ウィルバーも青と緑の術を灯した。磨り硝子のような淡い色彩の光球を、空へと解き放つ。ようやく涙を拭いたセドリックもそれに倣って、水と地の灯りを追い、火と光の色が宙へ昇った。
今日が終われば、今日へ。"来年"はもう、鐘が鳴り終わった瞬間から今年だ。あらたな日がまた来るうちは、まだせいぜい足掻くとしよう。どんなに困難でも、降りることは許されない。その選択肢は、はじめから存在しないのだ。なにがあろうと、ウィルバーはここにいて、生きた眼で理路整然と、希望を、手段を、活路を、語らなければならない。上長として、弟として、友人として――薬師として。それが、ウィルバーの選んだ道なのだ。たとえ何も成し得なくても、変わることができなくても、標は変わらないことでこそ意味があるのだと、信じて。
「今年も宜しく、セドリック」
「……ウィルバー」
「……よろしく、ったら。それともなに、やっぱりこれっきりでいいのかい。そういうことなら何処へなりとも僕は、」
「や、やだ! よろしく!! すえながく!!!」
「おかしな修飾語をつけるな」
きびすを返して、室内へと足を向ける。ばたばたとうるさい足音、うぃるばー!!と喚く声が背後からして、ウィルバーは小さく笑った。――その背中に、うるさい同僚が再びタックルをかますまで、あと二秒。