手の震えが、先程から収まらなかった。
Upon My Sword.
武者震い、そういえば聞こえはいいかもしれない。だがこれは紛れもなく恐怖だ、十九年間の短い人生の中、戦争なんて初めてで、おまけに敵の狙う標的を守る部隊の先鋒だなんて。わかっている、騎士団に籍を置くようになってから、いつかはこんな日が来ると理解していた、いつかはこの命を懸けて、国と民を守るために戦うこともあるだろうと。だが、流石にこれは少し早すぎやしないか、神様。
「小隊長。スタレット小隊長」
じっとりと汗を掻く手のひらを握りしめていたせいで、部下の声に気づくのが遅れた。そっと肩を叩かれて振り返れば、やはり顔色の青ざめた、同じ年頃の騎兵。まずい、こんなところを見られては、小隊まるごと士気が下がる。表情を取り繕い、頷いてみせる。
「あぁ……わりぃ、考え事。どうした?」
「サージェント――魔術師長代理が来てます、なにか用がと」
「セドリックが?」
重い腰を上げ戸口へ向かうと、部下の言ったとおりそこには相棒の姿があった。師の早すぎる二階級特進によって、その席に着かされた頼りなげな少年。真新しい制服は未だ身体に馴染まず、その襟元を彩る赤のスカーフは鮮やかすぎた。不安げな新緑の眼で、彼は静かに微笑む。
「レスター」
「おう、セドリック。――ありがとう、持ち場に戻ってくれ」
報せをくれた部下に告げれば、彼は敬礼してその場から離れる。再びレスターは相棒に視線を戻した。こうして見ると少しばかり痩せただろうか。無理もない、よく耐えているものだと思う。集落は焼かれ、家族を失い、帰る家さえなくなって、導いてくれたはずの先生ももうこの世に亡い。レスターであれば悲しみに呑まれて、泣き叫んで倒れてそれっきりだろう。仮に両親も、弟も、商団のひとたちも、みんなみんな殺されてしまったらと思うと、想像だけで目の前が真っ暗になる心地だ。だが現実に斯様な思いをしながらも、相棒は屈しない。泣き喚きながらでも前を見て、這いずってでも進み続ける――師から引き継いだ重すぎる役目を、細い背中にしっかりと負って。
そう、今回の作戦の要はセドリックだ、だからこそ敵の標的にされて、こんなことに。彼を警護する小隊がすぐ傍に控えている、その数三部隊――十七歳の魔法使いひとりには信じがたい規模だが、彼はただひとり、師の遺した作戦を継げる者。今宵彼のためにレスターは戦うのだ、彼が任務を遂行する間、邪魔が入らぬように。そのためなら命さえ惜しむなと、上長から命じられて。
「……どうした、セドリック。大丈夫か?」
緊張感の満ちた沈黙の後、何を言っていいかわからなくて、レスターはそんなありきたりのことを口にした。日頃のようにふざけあう言葉をかけられたらいいのに、あと数時間もすれば命のやりとりをすることになる現状が、それを許してくれない。
しかしセドリックはほんの僅か口角を上げ、首を傾げてみせる。微かだが、それは確かに微笑みだった。
「レスターこそ。……少し、震えてるか?」
「……っ、うるせぇな」
「怒るなって。俺もそうだもん、ほら」
図星を突かれ、ついついきつい口調になるも、相棒は静かに笑うだけ。そっと手を取られて、ようやく彼の指先が自分以上に強ばっていると気づく。
「……むしろ、俺よりひどいぞ。大丈夫か、本当に」
「……やるしかないよ、俺しかできないんだもん。みんな守ってくれるから、ちゃんとしなきゃ」
震える声で、それでもセドリックはしっかりした答えを返した。ああ、強いな。内心だけでレスターは感嘆する。思えば先生も、彼のこの強靱な精神力を高く買っていたように思う。頑固な子供だ、そう憎まれ口を叩きながらも、相棒を見る師の眼差しはいつだって期待に満ちていた。
冷え切ったセドリックの指先を、強く握り返す。不思議と、彼を前にすると自分の恐怖さえ鳴りを潜めて、力が湧いてくるような気さえした。
「土壇場で怖じ気づくなよ。ちゃあんと守ってやるから」
「怖くなんかない」
「えー?」
「怖くない。……俺は、怖くないよ、レスター。こわく、ないもん」
ポケットに突っ込んだままの左手をぐっと握って、セドリックは自らに言い聞かせるように呟いた。ほんとかよ、もう一度つっこもうと口を開く間に、握り合った手が引き寄せられて、何かが右手に絡まる感触。見れば、相棒がなにやら鮮やかな橙色の布を、手首に結びつけたようだった。思わず軽くまばたきをする。
「セドリック?」
「……レスター、あのさ」
こんなこと言っちゃまずいのかもしれないけど、と困ったように首を傾げ、相棒は眼を細めて囁く。
「……やばいと思ったら、逃げてくれよな」
「――おい、しっ」
「うん。わかってる。でも、約束して」
僅かばかり、言葉を紡ぐ声が震えて、それに気を取られた隙にあっけなく相棒の手は離れた。布が結ばれた手首を見やる――古い制服のスカーフらしいそれの端に、水晶にも似た無色の鉱石が、みっつぶら下がっている。
「――魔石か? おまえ、これ……」
「俺のだよ。魔術師団長たちに頼んで、作るの手伝ってもらった。クラスAの結界魔術、仕込んどいたから。同程度の魔術に反応して自動展開する」
「俺よりおまえが要るものだろ。持ってろよ、俺は自分でなんとか」
「頼む。持ってけよ、お願いだから」
落ち着いていたセドリックの声に、僅かながら懇願するような響きが混ざる。スカーフの結び目に突っ込んでいた指をとめて、レスターは顔を上げた。今にも泣きそうに顔を歪めながらも、セドリックの目は乾いていて、その眼差しは強かった。
「俺はおまえの主じゃないし、恋人じゃないし、守るべき貴婦人でもない」
「……セドリック?」
「でも、約束だ。必ず戻って。どんな無様な手を使っても、生き残ってほしい。戦争が終わったら、城でそいつを返してくれ、騎士殿」
その呼称に、レスターは反論を飲み込んだ。古い風習、守るべき相手の持ち物を媒体に、帰還を約束する騎士の誓い。時代とともに領主に剣を捧げる騎士は減り、レスターも騎士を名乗りながらも仕えるのは母国にである。むりやり当てはめるなら、女王が主と言えるかもしれない。しかし今日守られるのは自分なのだからと、風習を過大解釈してでもセドリックは持ち物をレスターに預けるつもりなのだ――三回分の結界魔術なんて、実用的すぎるおまけ付きで。
きっと、それだけ不安なのだ。
こわくないよ、だなんて。相棒の言葉に騙されそうになった先刻の自分を、レスターは蹴飛ばしたいような心地がした。不安にきまっている、怖いにきまっている。昨日まで一緒に笑い合っていた人々が、明日は永久にいなくなってしまうような思いは、もう沢山に違いない。
「頼むから、無事で。――父さんも母さんも、レヴェンツァンのひとたちも、先生まで……みんな、死んだ。……おれ、おまえまでいなくなったら……」
「……おまえ、」
「やばいよ。――ウィルバーにころされちゃうし」
なにかを言いかけてやめたのか、唐突に目を逸らして相棒がそんなことを言い出すので、レスターはつい吹き出した。セドリックとウィルバーは、仲が良いのか悪いのか微妙だ。端から見ていると喧嘩をするほど仲が良いように見えるのだが、確かに今回レスターに何かあれば、ウィルバーが相棒に突っかかってもおかしくない。
薬師を目指していることもあり、ウィルバーは王都に留まっている。最後に顔を会わせたときに、かけられた言葉は記憶に新しい。――不用意に怪我なんかしないでよね、兄さん治癒魔術も効かないんだから。薬だってそうだし。癒師も薬師もたまったものじゃないよ――そんな小言が飛んできたと思ったら、続けて小さな手鏡を言葉通りぶつけられて、避け損ねたレスターはうっかりそれを顔面で受けたのだ。本当に素直じゃないったらない。子供の頃のように頭を撫でてやろうとしたら、苦り切った顔で振り払われた。仕方がないので鏡だけ有難くもらって――弟がくれたそれは、こうしている今も上着のボタンに紐でくくりつけられて、胸ポケットに収まっている。
ああ、本当に恵まれているな。妙に晴れ晴れとした気分になって、レスターは笑った。東セレスティアからの宣戦布告があったとき、両親は新しい剣を贈ってくれた。戦場に出るとなったとき、弟は手鏡をよこしてきた。そしていざ交戦直前、今度は相棒がこれだ。そこに込められた想いは全て同じだ――生きて戻れ、無事であれ。悪いことが起こりませんようにと、みんな心をくだいて。
応えないわけにはいかない。腹を決めて、レスターは深く息を吸い込んだ。焚き火の匂い、黄昏の冷えかけた空気。この静けさも、あと数時間もすれば破られるだろう。
「……わかったよ」
頷いてみせると、俯いていたセドリックが面を上げた。あいつキレるとやばいもんな、と付け加えれば、不意をつかれたように彼は笑う。よかった、相棒も少しは緊張が解けたか。スカーフを結んだ右手で剣を取り、レスターはセドリックの前にそれを差し出した。
「おまえの名と騎士の七つの徳にかけて誓う。必ず返すよ。きれーに無傷でな」
「む、き……まじで?」
「出来ない約束を俺がするか? 見てろ、一滴の血だって流さないし、魔術の一片も矢の一本も、おまえのとこには通さない」
「でっかく出たなあ」
「当然だ。俺を誰だと?」
「レスター・スタレット小隊長殿」
「宜しい。――おまえは安心して、描画術に専念しろ。そのために俺達がいるんだ」
はっきりと、一片の迷いもなく告げれば、セドリックの顔にようやく笑みが戻った。その表情は故郷の街で見たような、いつも通りのそれに近くて、レスターは安堵する。怯えるばかりでは、かえって良い結果は出せない。それを思えば、持ち物を受け取って帰還を誓うだけで相棒の心の平穏を買えるなら、安いものである――とは言え、職業騎士の身でも誓いの言葉だ。名誉にかけて、それを違えるわけにはいかない。
剣を腰に提げ、レスターは相棒を見る。スカーフを結んだ右手を差し出し、握手を求めた。
「城で会おう、セドリック。武運を」
「うん――無事でな、レスター」
しっかりと手が握り返されて、離れる。踵を返して、セドリックは戸口をくぐり姿を消したが、相棒の気配は魔石に残って傍に留まった。胸ポケットの手鏡を探り、ひとつ深呼吸して覗き込む。いつも通り、変わらないレスター・スタレットの顔が、まっすぐ向こう側から見返していた。
あれだけ止まらなかった震えは、いつの間にか収まっていた。