調理道具と材料を抱えて、足取りも軽く家路を急ぐ。購入した魔術具の箱はかなりの重さで、腕はいっぱいだというのに、気持ちは弾むようだ。夏の賞与が入ったら、これ・・を購入すると決めていた。きっと料理にも製菓にも役立つだろう。
 料理は調合。そして食事は薬だ。菓子すらも、適時に適量を摂取すれば、こころの栄養になる。
 さて、まずは何をつくろうか。どうせだからたまにしか食べないような、思い切り甘いものにしようかな。にんまりと頬を緩ませた薬師の脳裏に過ったのは、いつだか学会の休憩時間で口にした異国のお菓子だった。
 

薬師 ウィルバー・スタレットのカルテ
 1. チョコレート・ブラウニー


「さてと」

 何をおいても、まずは計量だ。薬の調合でも、製菓でも、それは同じことである。ウィルバーの趣味で、キッチンには調合にも使えるような精密なはかりを置いている。異物混入がこわいので、当然新品を購入してきて念入りに洗浄し、キッチンでしか使用していないが。
 大さじで小麦粉を掬い、紙を敷いた計量皿の上にとさとさと積んでいく。今回は菓子を作る気だったので、しっかり薄力粉を買ってきたのだ。セドリックならば構わず自宅にある小麦粉を使っただろうが、残念ながら職業柄、ウィルバーはそこまで雑になれない。
 小麦粉を計り終え、次は砂糖だ。先に粉類をまとめて計ってしまいたい。同じように一枚紙を置いて、その上にひょいひょいとひとさじずつ乗せていく。白砂糖と茶色の砂糖を、それぞれ同じだけ。傍に置いた手帳のメモをちらりと覗き込みながら、つくづく量が多いなと半ば呆れた。なにしろ砂糖の総量が小麦粉より多いのだ。バニラのさやを一本切り開いて、中身を掻き出し、砂糖とあわせておく。ふわふわと漂う甘い香りに目を細めながら、次の材料に取りかかった。
 バターの量もなかなか多い。ほぼ砂糖と同量である。バターナイフで削りながら量を調整する。買ってきたバターの包みふたつのうち、まるごとひとつと四分の三ほどがボウルに入ったが、菓子を作る以上は油脂の総量など考えない方が良さそうだ。なにしろチョコレートだってかなりの量を入れる。あれだって半分は油脂のようなものだ。

「……こころの栄養とは、よく言ったものだよね」

 これを日常的に食べていたら、栄養がありすぎてむしろカロリーの摂り過ぎになる。あればあるだけ食べてしまう、兄やセドリックのような輩には危険すぎる菓子だ。やれやれとかぶりを振って、ウィルバーはチョコレートの包み紙を破った。

 湯を沸かした鍋の上に銅のボウルを置き、バターと刻んだチョコレートを放り込んでおく。ボウルに触れたところからじわじわと溶けだしていくのを眺めていると、豊かな香りがふわりと漂ってキッチンを満たした。
 湯煎が済むのを待つ間に、型の準備にとりかかる。内側にいつも通りバターを塗って、蝋をひいた紙を敷きこめば完了だ。ときどき紙に折り目をつけるのを失敗することがあるのだが、今日はうまくいった。気分がいい。
 準備の終わった型を横にどけ、満を持して新しい調理魔術具の箱を開ける。中から現れた滑らかな金属のボディに、ついにやりとしてしまった。いやはや技術の進歩とは素晴らしい。魔術具を設計するような技師とは、一体どのような発想の持ち主なのだろうか。同じ専門職に分類されるとはいえ、薬師のウィルバーには到底このようなことは思いつかない。
 さっそく食品に触れるパーツをすべて洗浄し、きれいに水気を拭きとる。付属のボウルに卵をみっつ割り入れ、興味深く説明書を覗き込んだ。記載どおり、本体から露出した輝石に指で触れてみる。あとは魔力を注ぎ込むことで、内部機構が動作するはずだ。

「ええと……2フレーズの詠唱、でいいのか。“恵みの時雨よ、賢者の意志を継ぎし我が命ずる”――おっと」

 詠唱を終えるより早く魔術具がぎゅるりと音を立て、ウィルバーは驚いて本体をカウンターから落としそうになった。なんということもなく、魔術具はただ設計どおりに動作しているだけで、ボウルの中で卵に漬かった泡立て器のようなパーツが回転を始めている。はあ、とウィルバーは感嘆の声をあげた。実に便利だ。これで卵を泡立てるために、数分ボウルと格闘する必要もない。めつすがめつ魔術具ミキサーと説明書を見比べながら、聞く者もいないのに、つい賞賛の言葉を口にした。

「これ、生クリームもいけるんだ……うまくやればパン生地とかもねられるんじゃないか? 本当にすごいな……世紀の発明だ……」

 頭をふりふり、ウィルバーは高速で回る卵液に砂糖の一部を投入する。ざらざらした結晶はあっけなく馴染んで、オレンジの泡の下で見えなくなってしまった。
 ひとまずチョコレートも卵も放っておける。この間にオーブンに火をつけることにして、ウィルバーはマッチに手を伸ばした。セドリックならば詠唱もせずに容易く点火しただろうが、あいにくウィルバーではそうはいかない。レンガでマッチの頭を擦り、薪に火をつける。確か火加減は中火で良かったはずだ。パンのようにあまりの高温で焼いては、きっと焦がしてしまうだろう。
 作業を終えて顔を上げると、湯煎しておいたボウルの中身はいい具合に液状化していた。湯からボウルを引き上げ、木べらで掻き回す。塊が残っていないことを確認して、残りの砂糖をざっと混ぜ込んだ。これで卵に加えても問題ないくらいに温度が下がる。一度ボウルの中でチョコ味のスクランブルエッグもどきを作り上げてしまったのは忘れたい思い出だ。食べられた代物でもないし、あれは本当に処理に困った。

「さてさて、どうかな」

 ぐいぐいとやかましく動き続ける魔術具を覗き込み、つい声を弾ませた。ボウルの中で卵は倍ほどにふくらみ、色も淡くなってきている。日頃、十分ほどかけて手で泡立てているものより、具合がよさそうだ。
 溶けたチョコレート液を卵に注ぐと、深い茶色が淡い黄色に渦を巻きはじめる。ほんの数秒、美しいマーブル模様を描き――それを楽しむ間もなく、あっという間に均一に混ざってしまった。なるほどこれだけは少し味気ないな、とおかしな納得をしつつ、ウィルバーは魔術具の輝石を指先で叩く。ういん、ういん、と内部の歯車が回る音が遅くなり、みっつ数えないうちに本体から魔素マナが抜けて、泡立て器部分が動きを止めた。

「……ふむ。でも、まあ、便利だよね」

 このように量の多いもの同士を混ぜるときは、誰かに横から材料を加えてもらうことも多いのだが、その必要もない。しかし、あの混ざっていく瞬間はもう少し長く楽しみたかったのに。なぜか残念な気分になりつつ、ボウルを魔術具から取り外す。思わぬ欠点だが、この便利さと手軽さには、きっと敵わない。なんでもかんでもうまくはいかないもんだな、とウィルバーは鼻を鳴らした。
 とは言え、ここからは混ぜすぎ厳禁なのだ。きっと人力の方がうまくいく。
 気を取り直して、粉ふるいを手に取る。ボウルの上にかざした網の上から薄力粉を流し入れ、ついでに塩もぱらぱらと加えた。ふるいの縁を叩いて粉をボウルの中へ落とせば、こっくりとした茶色の上に、白が雪のように降り積もっていく。この行程を眺めるのも、わりと嫌いではない。
 粉ふるいが空になったところで傍に置き、刻んだチョコレートとクルミを二掴みほど投入する。新雪を踏み荒らすように、ばらばらとくぼみが粉の上に出来あがって、ウィルバーは少し笑った。あとは混ぜ込むだけだ。ボウルの端から生地を掬い、木べらで中心に粉を折り込んでいく。褒められたことではないとわかっていながら、ほんの僅か指についた生地を舌先で拭った。――甘い。

「うん……いいな」

 粉っぽさのなくなった生地に満足して、ウィルバーは準備しておいた型を取り上げる。もったりした生地をヘラで掬いながら、注意深くボウルを傾けた。押し出すように掻き出して、すべて型に移しきる。かなり中心に盛り上がってしまったが、この粘度では仕方がない。どうせ今から均せばいいのだ。ヘラの先を使って、全体が均一になるように表面を撫でる――毎度のことだが、ヘラにたっぷりとこびりついてしまうのは本当にどうにかならないものだろうか。これでもういいかな、と怠け者が意識の底から顔を出す。

「いや……でも、この分がもったいないし、量が減れば焼き時間に影響が出るかも……」

 やはり、手は抜けない。苦心惨憺くしんさんたん、どうにか無駄は最小限に抑えて、ほぼ全ての生地を型に移しきる。濡れたスプーンを使うことを思いついた自分を褒めてやりたい。小さな達成感を覚えながら、ウィルバーは型を熱いオーブンにそっと差し入れた。あとは焼き上がりを待つだけだ。

 製菓において一番難しいことは、焼けた菓子が冷めるのを待つことだ――そんなことをいつだか口にしたのは、同僚だったか、上司だったか。
 オーブンから出した型をカウンターに叩きつけて空気を抜き、早二時間。冷却の魔術までかけて、部屋を満たす甘い香りにじりじりしながら待ちわびたその時が、ようやくやってきた。しっかり全体が冷え切ったのを確認し、敷紙をつかんで菓子を型から取り出す。常温まで温度を下げた菓子は、どっしりとした一枚板になって姿を現した。張りついた紙をぺりぺりと剥がしつつ、にやけてしまうのを抑えきれない。つくづく自宅に誰もいなくてよかった。

「ナイフ、ナイフ」

 楽しくて意味もなく口ずさみながら、長いパン切りナイフを取る。せっかくきれいに焼けたのだ、美しく切り分けたい。角が90度の正方形に、4×4で十六個。ころころとした真四角の菓子を皿に盛るのを、想像するだけで嬉しくなる。湯でナイフを温め、慎重に水気を拭って、まずは両断するように刃を入れた。

「――わあ……」

 さくり、と表面に刃が入ったかと思うと、あとはバターを切るように滑らかに埋もれていく。上からナイフを押し、まな板に当たる抵抗を感じてから、ゆっくりと持ち上げた。再び姿を見せた刃には、べたりとチョコレート色がこびりついている。いい出来だ。
 フォークでこびりついた生地を掻き落とし、また刃を温めて、同じ行程を繰り返す。定規で大きさを測りつつ、あわせて六回ナイフを入れれば、均等な正方形になった菓子が十六個分まな板に並んだ。こびりついた生地を取り除くのに使ったフォークには、こんもりと菓子の切れ端が乗っかっている。行儀が悪いのを承知で、ウィルバーはそれをぱくりと口にした。どうせ誰も見ていないし、味見を兼ねているのだ。そう、これはただの味見。

「……うまい……」

 自画自賛もいいところだが、今までで一番上手に焼けたかもしれない。目の覚めるような甘さ、ほんのり後をひく塩味。鼻に抜ける芳ばしい香りに、クルミのさくさくとした歯触り。舌にまとわりつくような食感に、バターのまろやかさ。感嘆の声をあげて、ウィルバーは達成感に拳を握る。濃厚だが、心底うまい。コーヒーやホットミルクとあわせたら、きっと最高だ。
 ――コーヒーか。そう言えば、兄は今夜当直だったはず。菓子をよっつワックスペーパーでくるみ、残りはひょいひょいと大皿に積み上げる。休憩時間の差し入れとしては、最高だろう。
 レスは僕を弟にもったことを感謝すべきだよね。にやりと笑って、ウィルバーはエプロンを取り、鞄を肩から提げる。はしゃぐ兄の顔はとっくの昔に見慣れて、苦もなく脳裏に描けるようだ。焼き菓子の入った小さな紙袋を手にして、ウィルバーはしっかりと戸締まりをすると、自宅を後にした。

* * *

「ブラウニー」
「うん、ブラウニー」
「うまそう。……これって、チョコケーキとどう違うんだ?」
「それ、“リンゴって果物とどう違うんだ”って感じの質問だけど、いい?」
「……なるほど」

 苦笑して、レスターはウィルバーにもコーヒーを淹れてくれた。菓子の包みをひとつあけて兄に寄越しつつ、ウィルバーは小さく肩を竦める。
 レスターの休憩時間にあわせてオフィスに突撃したところ、丁度いい具合に兄は湯を沸かしていた。机の上にあった板チョコを押しのけて土産を差し出したところ、結局相伴に預かることになった形である。馬鹿げたレベルの薬物耐性も、こんなところでは役に立つ。そうでなければ、コーヒーとチョコレートの覚醒効果で、無駄に眠れなくなっていたところだっただろう。

「ブラウニーは……ほんとそのまま、チョコレートケーキの一種だよ。帝国に学会で行ったとき、休憩時間にいただいたんだ。そのときレシピも聞いたから、何度かつくってみたんだけど、今回は特に巧くいったから」
「へえー。“練習は熟達への道Practice makes perfect”とはよく言ったもんだ」
「どっちかというと、新しいおもちゃ・・・・を買ったからだけどね」
「ん?」

 なんだそれ、と眉を上げた兄に、ウィルバーは魔術具についてかいつまんで説明した。料理も然程さほどせず、技術畑でもないレスターにはそれほどすごさが伝わらなかったようで、軽く首を傾げられるだけで終わる。

「便利そうだな……でも、それだけでそんなに劇的に変わるもんか?」
「人力にはなんだかんだ、ムラがあるからね。繊細な調整が可能と言えば確かだけど、そもそも僕の腕だって家庭料理の域を出ない。そうすると魔術具ミキサーに任せた方が楽で、速くて、出来がいいというわけ」
「なるほどなあ」

 まあ、それでもおまえが上手だからうまくできたんだと思うけどな、と首を傾げつつ、レスターはぱくりと菓子を口にする。もぐもぐと咀嚼そしゃくしてほんの数秒後、ぱっとその眼の色が明るくなった。つい得意になって、ウィルバーはにんまりと口元を緩ませる。

「いけるでしょ」
「うめえ。――甘いけど、それがいい」
「疲れた脳みそに染み渡る甘さだよね」
「クルミの食感もいいな……ん、塩味もする」
「甘いお菓子でも、塩は必ず入れるものだよ」

 なるほど、と言いつつ、レスターの食べる手は止まらない。あっという間にひとつが無くなり、そのスピードに半笑いになりながらウィルバーは兄にコーヒーを勧めた。

「相変わらず、チョコレートには弱いね。兄さん」
「唯一の弱点だからな」
「唯一?」
「……コーヒーも」
「それだけでもないでしょ」

 肩を竦め、ウィルバーもコーヒーカップを傾ける。兄に倣って焼き菓子の包みを開け、ぱくりと口にした。どうやらこいつは型の角の部分のようだ。比較するとねっちりとした歯ごたえを感じて、これはこれで好みである。どうやらレスターは型の真ん中部分に当たる、とろけるような食感を好むようで、わざわざそこから選んで食べ始めている。さくり、と外層を食む音がして、ふたつめの菓子の半分が兄の口の中に消えた。良すぎる食べっぷりを見かねて、一応念を押しておく。

「……それで最後だからね」
「えっ」
「だめだよ、一度には。チョコレートの摂り過ぎ」
「……もうひとつくらい」
「だめ。ついでにこれも没収」

 兄の机の上から板チョコを取り上げ、鞄にしまい込む。あぁ、と目の前であがる哀れっぽい声に笑って、ウィルバーは食べかけの焼き菓子をもう一口かじった。こいつはなかなかの出来のようだ、あとでしっかりレシピを更新しておくとしよう。きっと、これからもたびたび兄のために、ブラウニーを焼くことになりそうだから。

Chocolate Brownies

(疲れた気持ちを癒してくれる、甘い甘いチョコレートの妖精)


チョコレート・ブラウニー

 
◆材料(20cm×20cm型 一枚分)

◆行程

  1. チョコレートは刻み、バターとあわせて湯煎で溶かす。
  2. 卵と砂糖の半分をあわせ、パンケーキ生地のように白っぽくなるまで泡立てる。
    魔術具ミキサーがあるなら使用すると楽。スタンドミキサーでもハンドミキサーでもよし。
  3. 溶けた1のチョコレートに、残りの砂糖を加える。
    熱いまま卵に加えてしまうと、熱で凝固してしまうので、砂糖を加えることで温度を下げる。
  4. 2の卵液と3のチョコレートを混ぜ合わせる。
  5. 4に薄力粉と塩をふるいながら加え、ヘラでさっくりと混ぜ合わせる。
    具を入れる場合、粉っぽさがあるうちに投入する。粉が見えなくなったら混ぜ終わり。
  6. 粉を加えてから混ぜすぎると硬くなるので、程々に。
  7. 型に流し入れて平らに均し、オーブンで25分ほど焼く。
  8. 串で突いたら少し生地がついてくるくらいで焼き上がり。焼きすぎるとただのチョコレートケーキになるので、注意。
    生焼けと見分けるには、串にこびりついた生地を指先でこねてみるといい。ひとまとまりになって脂が染み出すようなら火は通っている。
  9. 型ごとカウンターに叩きつけて空気を抜く。
  10. 余分な空気が抜け、密度のある食べ応えになる。
  11. 型に入れたまま完全に冷ます。
  12. 熱が取れたらオーブンペーパーをつかんで型から出し、切り分ける。
  13. 生地がナイフにこびりつくので、ナイフを温めて切ると切りやすく、断面が美しく仕上がる。
    その際は、刃を湯に浸して温め、充分に水分を拭き取ってから切る。一回切るごとに繰り返すとなお良い。
 

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