ブルーグレイの栄光

 扉を閉めるその背中を、ただ見つめていた。十年ほど前から変わらない背格好の、小柄な彼。流暢なフランス語でベルボーイをねぎらい、相棒はぴんと背筋を伸ばして踵を返す。

「ようやっと、帰れんな」
「ああ。長かった」

 こちらを一瞥した蒼のまなざしは、少し疲れているようだった。だがその口許には笑みが浮かんでいて、医師は安堵する。アルヴィス・ブラックが微笑んでいるなら、大丈夫。もっとも、彼は常に表情を取り繕ってみせるから、それを見抜くのには少々骨が折れるが。

「長かった、かなあ。オレ、もっとかかるかと思ってたよ」
「長い、長すぎた。戦争を終わらせるための戦争とはいえ、合計四年だ、この規模で。おまけにろくでもない条約で締めくくるときてる」
「え、ろくでもない?」
「ろくでもないだろう。どこかで改善しないと、長くて20年だな」
「20年って」
「歴史は繰り返す。同じことが、また起こる。だが時間は稼いだ。その間に権力をつけて根回しに励んで、回避する方法を考えるさ」

 まだまだお役御免とはいかないらしい――そう笑って、英国軍のご意見番は迎えの車に乗り込んだ。慌てて医師もその後に続く。いつだって相棒には置いていかれてばかりだ。追いつこうと思うなら、必死に足を、頭を、動かし続けるしかない。

「……また、起こるのか。こんなことが」
「起こさせない」
「――ブラック、」
「起こしちゃいけない。クロス、おまえの息子みたいな若いのが、向こう何十年の人生を台無しにされるなんて、あっちゃいけないことだ」

 ゆっくりと動き出した車の中、蒼の眼差しがすいと医師を見た。変わらないブルーグレイ、だが目の前に居る彼は、過去に囚われた頼りない青年の面影もない。ひとつの大戦を、影ながら終局へ導いた者。悲劇を繰り返させまいと、奔走する意志をもつ者。未来の危機を予測し、回避するだけの頭脳が彼にはある。
 彼の強い口調に、クロスはややあって頷いた。四肢がついたまま帰還したとは言え、次男の左手足はまだ思うように動いているとは言えない。想いだけなら、医師も相棒と同じだった。それを実現する能力があるかは別として。

「……うん。あっちゃ、ダメだ。レロイみたいな奴、増やしちゃいけない」
「運が良くてあれだからな。これから忙しくなるぞ、クロス」
「オレも?」
「俺の医学知識はたかが知れてる。シェル・ショックだって、まだ原因が解明されたわけじゃないからな。ひとつそこから始めたらどうだ、医学の歴史に名を残すようになるかもしれないぞ」

 敢えて軽く口にしたのは、彼の気遣いなのかもしれない。知らず知らずかたく握っていた拳を軽く小突かれて、クロスは我に返るように力を緩めた。じんと指先に血が通う感触がする。

「……できるかな、オレに」
「内科も外科も網羅してるスーパードクターにしちゃ、弱気だな」
「うるせぇよ。――わかった、やってみるさ。マイルズ・クロスの名を後世にまで轟かしてやる」
「字が汚いのをなんとかしないと、教科書に手記が載ったとき恥ずかしいぞ」
「うるせぇよ」

 今度こそクロスは相棒を爪先で強くつつく。ポケットに手を突っ込んで、彼はくつくつと笑った。

「その暁には片隅に俺の記述も載せてくれ」
「んだよ、調子いいやつ」
「今更だな。昔からこうだ」
「エバんな」
「威張らせろ、どうせ俺が幅をきかせてるのなんか内輪ネタで終わる」
「……裏でいろいろ糸引いてるやつの言う台詞かね? おまえだって表に出りゃいいんだよ。あっちゃこっちゃのお偉いさんに手柄よこしてないで、俺がやったって言えばいい」

 作戦の功績は、指揮官に。条約の締結は、責任者に。勝利の栄光は、女王と国家に。決定的な一手を指し示しながら、アルヴィス・ブラックは必ず舞台袖に引っ込む。ひとつの終わりをただ見守って、そっと新たなはじまりへ歩み出す。何事もなかったかのように、誰よりも早く一歩先へ。そういう男だ。オーケストラの指揮者のように、拍手喝采を浴びながら観客に一礼なんて、ただの一度もしやしない。
 クロスの言葉に、ブラックは小さく微笑む。そっとラペルに挿したピンの家紋を撫でながら、彼は肩を竦めた。

「俺の功績は、表に出ないのが正しいさ」

 ――私の功績は、知らしめるべきものじゃない。それはかつて、彼の父が口にした言葉だ。静かな口調までそっくりで、クロスは相棒を改めて眺める。思えば彼ももうそんな年か。彼の歳月は先代ブラック卿のそれを超えて、まだまだ続いていくのだ。
 ふ、と頬を緩ませて、アルヴィス・ブラックは笑う。蒼の眼が、僅か満足そうにその色を柔らかくした。

「そういうものだ。それでいいじゃないか」

 おまえと家族が知っていてくれれば、それでいいさ。そう嘯く言葉さえ、かつて先代の口から聞いたもの。家督を継いだのは、結局彼ではなかった。だが彼は彼なりに、一度は任されかけたその重荷を、その教えを、未だ忠実に守っている。それは先代の最期の言いつけに、彼がはらった敬意かもしれなかった。
 やれやれと肩を竦め、クロスは息を吐き出す。口にするのは、かつて先代に己の父が告げた言葉だ。

「おまえがいいんなら、それで」
「心底わからんって声してるな」
「……うるせぇよ」

 倫敦塔の渡鴉、そう彼を称したのは誰だったか。たとえその軌跡が輝かしくなくとも、表だって故郷を照らすことがなくとも、真昼の月のように彼はいつもそこに在って、いつでも答えを知っているのだ。願わくはずっと彼が導く未来を、隣で眺め続けていられたら。
 細い指先が示した故郷の旗は、港で待つ白い船を誇らしげに飾っていた。かつてと変わらない蒼の眼が、クロスを見て笑う。

「かえろう、相棒。我らが英国もお待ちかねだ」

Glory of Blue, Cloaked in Grey.

(いつでも、どんなときも。ただそこにある。いつも)

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