鴉の翼を奪うのは
倫敦塔の大鴉。その二つ名を、己が旧い名が失って久しい。時計塔から霧の街を見下ろし、探偵ははためくコートの前身頃を掻き合わせた。十二月の風は刺すように冷えて、地表は遠く遙か下。この曇天を切り裂いて、鴉のように天翔ることができたら、少しは気も晴れるのだろうか。
(――ばかばかしい)
靴底を支える煉瓦を蹴ってみたところで、この身体は物理法則に逆らえず、無様に地面へと叩きつけられる筈だ。それを予測できないほど探偵は愚かでなく、いや自分ならもしやと思うほど夢見がちでもなく、それで全てが終わると知って飛ぶには臆病すぎた。やるべきことは多くあり、放棄するにはあまりに惜しい。真相を突き止めるまでは、たとえうっかり命を落としたとて、死んでも死に切れまい。
なによりそんなことをすれば、相棒が酷く哀しむだろう。何故と嘆いて、自身を責めて、子供のように泣きわめくかもしれない。患者を喪った夜毎に、哀しみをアルコールで紛らわす医師を幾度となく見てきた。きっと探偵がいなくなったら、医師はまたそうするのだろう。相棒が酒浸りになる原因を、自分が作るなんてまっぴら御免だ。
かぶりを振って、探偵は風に傾いた帽子を指先で押さえる。周りは結局、本質などなにひとつ視えていない。医師が探偵に頼りきりなのではなく、探偵が医師に繋ぎ留められているのだ。命綱のように、碇のように。先へ進むときは背を押し、道を違えれば腕を引いて、彼の両手は傍になくとも常に探偵の肩を支えている。鉄面皮のポーカーフェイスは所詮付け焼き刃で、尊い黒と謳われた名とは裏腹に探偵の本質は情けない。相棒がいなければ、きっととうの昔に膝を折っていたことだろう。
日頃、医師は探偵が黒い外套を羽ばたかせて地上から飛び立つのではとおどけるが、探偵からしてみれば相棒の白衣こそ翼に見えるのだ。幼い頃無邪気に信じた天上の使いのように、ひとを助け愛し慈しむ彼こそ。神は信じなくとも、天の使いを思わせるほど善良な医師は紛れもなく現実だ。その信頼を裏切ることはできない。隣にいろ、独りになるな、安心で安全で健やかであれと、呆れるほど心を砕く相棒から、その対象を奪う権利は存在しない。たとえその相手が、探偵自身だとしてもである。辟易するほど残酷なことに、己の命は己だけのものではない。
飛ぶことは、許されない。
「――破滅には、まだ遠い」
だが、いつか。いつか己が存在によって、相棒の安全を脅かすことがあれば――そのとき探偵は躊躇いなく飛ぶだろう。彼を命綱と呼ぶならば、命綱を残すが為に落ちる行為はあまりに愚かかもしれない。だが相棒はそれ以上の者で、本来無関係であるはずの者だ。道連れになど出来るはずもない。
今更ながらに、亡き父の意向が腑に落ちるようで、探偵は深く息をつく。きっとこんな思いで、父は執事を遠方へ遣いに出したのだ。もう会うことはないかもと知って、それでも何食わぬ顔で送り出したのだ。いってらっしゃい、待っているよ――今生の別れにしては酷な、あまりに普遍的なその一言だけを贈って。
「――まだ、とおいよ。相棒」
鴉が堕ちるときは、独り。ひとつ白い息を曇天に吐きだし、探偵は背筋を伸ばすと階段の方へ踵を返す。風に煽られたその足許で、黒いコートが翼のように舞った。