飛べない鴉の傍らに

 喉元に刃、背後には空。あと一押しで、この身は切り裂かれるか、時計塔の天辺からフリーフォールかの二択。愉悦を含んだ相手の眼、狼のような黄色を睨み返しながら、探偵は肺から空気の塊を追い出す。

「そら、落ちろよ。それで仕舞いだ。それか、いっそ飛んでみるかい――ちっちゃな渡鴉さんリトル・レイブン

 揶揄する声が耳に残る。八重歯を見せて、眼前で検視官が笑った。完全なる油断の表情、だが実際探偵には為す術などない。この身を護る母の剣は、先程敵の手によって階下に蹴り飛ばされた。忌々しい、刃こぼれでもしていたらどうするつもりだ。あれを打ってくれた親方は頭を抱えるだろうし、なにより母に合わせる顔がない。せめてもの思い出にと、あれの手入れは欠かしたことがなかったのに。
 
「渡鴉が去れば、英国は滅ぶのに?」

 軽口をたたいて、探偵は時間稼ぎにかかる。その文言をどうとったのか、相手は愉しげに口角をつり上げた。
 
「それは命乞いか?」
「さて、どうだろうな」
「かわいくないねえ。跪いて靴でも舐めれば、検討してやらなくもないんだぜ」

 跪かせる気さえないくせに、よく言う。喉に食い込む刃の冷たさに、今度は探偵が乾いた笑いを洩らした。硬いその鋭さが皮一枚を割いて、汗とは異なる感触が滲んでいる。少しでも動けば――どうなるか、そんなことは明白。視線だけで抗議すれば、検視官は鼻で嗤う。
 
「渡鴉も、アーサー王だって所詮は迷信だ。童歌ナーサリー・ライムとそう変わりゃしない。そう睨んだってさ、"倫敦塔の大鴉"なんか恐くないのよ、おわかり?」
「残念ながら、その名で呼ばれたのは俺じゃない」
「おやじさんだったな、こりゃ失敬。流石は大鴉、厄介な息子おきみやげを巧妙に隠してくれたもんだ。おかげさまで俺らの計画は台無しだよ――まあ、おまえさんひとり消しゃあ、まだ挽回は楽そうだが。なにしろ警視庁ヤードはポンコツの集まりだからなあ?」

 ぐいと刃が押しつけられて、探偵はまた数センチ仰け反る。背骨が軋み、呼吸がさらに困難になった。あちこちの筋肉が、限界を訴えて震え出す。かろうじて柱の傷にひっかけた爪が、ぴきりと嫌な音をたてた。
 
「てことだ、名探偵。Be a dear, off you pop.ほうらいいこだ、落っこっちまいな

 顔が近い。息の匂いが判るほどの至近距離で、検視官はにやりと笑んだ。
 
「どうせ神なんていねえんだ。おまえさんだってそれくらい、解ってるんだろう」

 潮時か。時間稼ぎもここまで、終わるときはこれほどにあっけないものか。地上までざっと数十フィートはくだらない、ここから落ちれば一番重い頭が下になり、数秒もすれば激突、路面に脳髄をぶちまけるはず――幾度も繰り返した予想を、おかしいほど冷静に反芻するその瞬間、視界の端に白が過る。ひらり、ただ音もなく、気配もなく。
 階下に、いる・・
 
「それは、どうかな」

 あと、数十秒。脳天をかち割るよりはいい。どれほど手袋が耐えるかは知らないが、計算することは放棄して探偵は喉許の刃を掴んだ。そのまま押し返すなり、革が鋭く軋む音。少なくとも数秒は保つだろう。つくづく今日が冬でよかった。
 
「……なに? ビビって気でも違ったかい」
「あんたと同じくらいには正気を失ってるな。――そら、天使様の御成りだ」

 言い終えるより早く、叩きつけるような重い足音がひとつ、ふたつ。どうやら忍び寄ることは諦めて、速さを優先したらしい。だから奴は演出家に向かないんだ、と探偵は含み笑いした。検視官が新たな敵に対応しようと振り向き――額に押しつけられた銃口に、思わずと言った体で身を堅くした。
 コートに着替えてくる暇もなかったのか、相棒の足許で薄すぎる白衣の裾がひらめく。額から汗が流れるのも構わずに、マイルズ・クロスが銃を構えて佇んでいた。ようやくその口許から、堪えていた荒い息がぜえぜえと洩れる。殺意にほど近い怒りを漲らせるヘーゼルの眼差しに、探偵は肩をすくめてみせた。
 
「主を讃えよ、破滅フォールにはまだ遠い。そうだろう、ドクター・クロス」
「ころすぞばかやろう」
「洒落にならない」

 相棒が検視官を銃で追いやるのを眺めつつ、掴んだ刃を放す。さっと相手が退くのと同時、白衣を翻して医師は探偵の傍についた。体勢を立て直し、破れた手袋を捨てて剣を受け取る。階下から相棒が回収してくれた母の形見は、あとで手入れをするにしても一戦くらいは耐えてくれそうだ。
 さて、形勢は逆転。相棒の肩にとんと凭れれば、ひとの気配がじんわりと近くなる。その暖かさにくくと笑いを洩らせば、相棒は視線を前へ向けたまま、そっと言葉だけをよこした。
 
「無事なのか」

 街並みを遙か下に臨む時計台の天辺、風の音にまじって聞き慣れた声が耳に届く。その低さが心地よくて、探偵はひとつ息を吐くと剣を握り直した。たとえ宙を背にしていても、肩を並べる相棒がいるなら畏れることはない。天翔るなら、ふたり。たとえ飛べはしなくても、二対の脚でどこまでも行く。
 静かに口角をもちあげて、探偵は背筋を伸ばす。ぱき、と骨が鳴る音をかき消すように、朗々と応えた。
 
「見てのとおりさ、相棒マイ・ディア

 風に煽られた足許で、黒のコートが舞う。少しばかり薬臭いやわらかな白が、傍らで大きく羽ばたいた。

No worries, dear friend;
I've got you, you've got me.

(とべなくとも、それでいいのさ)

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