サンドイッチは如何?
気がつけば窓の外は暗く沈んで、オフィスの人影はまばらになっていた。かれこれもう何時間、捜査資料とにらめっこしていたか知れない。肩がばきりと疲労を訴えて、フランチェスカは顔をしかめた。背中もガチガチに固まっているし、思えば空腹でもある。いい加減帰りたい。煮詰まった思考に割り込んだ欲求には、ため息をつくほかなかった。
――だめだめ、もう少し。何か手がかりを見つけないと、早いところ解決しないと……。
昼に部下からおすそ分けされたショートブレッドが、ペーパーナプキンに包まれて机の片隅にある。あれでも口にして、夕食までのつなぎにしよう。つなぎのつもりがそのまま夕食になってしまうのでは、そんな懸念はひとまず横に置いておくしかない。手を伸ばして菓子を取り上げ、ひとつ口にする。持っているのも億劫で、口からはみ出させたままもぐもぐと咀嚼しながら、椅子の背にもたれた。これを食べている間だけでも、休憩しよう――そう決めて、まぶたを下ろす。
せめて何か突破口を見出さないと、今夜は帰れない。がんばらないと、成果を上げないと、そうでもなくても不利なのだから、人の何倍もやらないと認めてはもらえないのだから――
「……すごい顔だな。三十路通り越して四十に見えるぞ」
こつん、額に当たる感触に、不遜極まりない軽口。目を開くと、間近で眺める蒼色の眼差しと視線がかち合った。斯様に無礼な感想を面と向かってぶつけてくる者は、弟の他にいない。
互いの額がくっつくほどかがみこんで眺めてくる馬鹿を懲らしめるべく、フランチェスカは背もたれのクッションに深く頭を沈める。しかし、意図した頭突きはその動作であっさりと勘づかれ、アルヴィスは身を起こして姿勢を正した。しゃらりと懐中時計のチェーンを鳴らして、弟が口にするのは相も変わらず小言だ。
「菓子をくわえたまま食うな。父様が嘆くぞ」
「うるさい、アルヴィス・ブラック。――なんでここにいるのよ、また事件に首突っ込んでるの?」
「随分な言い草だな、召集かけられたから出向いてきたのに」
「わたし、呼んでないわよ」
「最近俺を呼ぶのはフランだけじゃないってことさ。おかげさまでちょっとしたコンサルタント状態だよ」
肩をすくめて、アルヴィスは姉の追及を軽くかわす。おまけに机の端あたりの資料をどけて行儀悪く腰かける始末で、フランチェスカは苛々とペン軸で机の天板をつついた。
「冷やかしならとっとと出なさい、わたしは暇じゃないの」
「その山のような資料をみればわかる。またろくでもないもの押しつけられてるな」
「……うるさいわね」
ろくでもないもの、言われずともそれは判っている。フランチェスカの許に降ってくる事件は、解決の見込みが薄い迷宮入り寸前のものか、表向きだけは対応している体をとっておきたい案件か、とんでもなく地道な裏付け業務のいずれかだ。そもそも女だてらに警官などやっていられるのが奇跡のようなものである。これ以上ごねるのは贅沢かもしれない――そうは思っても、例えば同じ状況にアルヴィスが陥ればこんな扱いは受けないのだろうかと思うと、漠然とどこに向けるともない憤りを覚える。
――わたしが男であったなら。わたしが女でなかったら。きっとこんなことにはなっていない、もっとエルとアルの力になれて、父様と母様の仇もとれて、まだアルとおんなじで、わたしは、わたしは、わたしは――
「そう根を詰めるな。うっかり倒れでもしたら、洒落にならないだろ」
がさりと乾いた音が思考に割り込んだかと思うと、書類の上に小さな紙袋が置かれた。資料の雑な扱いにフランチェスカは顔をしかめたが、弟は気にした様子もない。
「なによこれ」
「食事くらい摂ってから進めたほうがいい。腹が減ってるときは、ろくなこと考えないものだろ」
意図しているのかいないのか、真顔でうそぶく弟はいっそ滑稽で、フランチェスカは吐き出すように笑う。そもそもアルヴィスだって生活習慣に気を遣う方ではない。事件にかまけて寝食を疎かにした挙句、マイルズ・クロス医師に叱りつけられるのも毎度のことだ。
「よく言うわよね、あんたが」
「同じように怒られたくないだろ。兄貴とクロスが両側からやいやい言ってくるぞ」
「うるさかったところで所詮はエルとマイルズでしょ、別に怖くないわよ」
「どうかな。ぶっ倒れて、診察でもされるとなると――」
「わかった。それは嫌」
兄はともかく、マイルズは困る。幼少時から見知った相手だからこそ、医療行為とはいえ肌を見られるのには抵抗がある。まったく、男であったならこんなことで尻込みせずともよかったのに! うんざりと両手を上げて降参すれば、ようやくアルヴィスは机から降りた。よろしい、なんて生意気な口ぶりで見下ろしてくる姿に、嫌でも弟の成長を思い知る。
背丈はとうに越された。力も、知識も。アルヴィスは昔から小柄で、フランチェスカはそれなりに背丈がある方だったから、姉である自分が守ってやらないとなんて、子供の頃はいつだって思っていた。かつてはフランチェスカも彼のような頭があったから、増えていくデータを競い合うこともした。増えすぎた記録の纏め方も、忘れられない出来事のしまいこみ方も、なんだって教えてやれた。
ちっちゃな弟、かわいい弟。一歩先を行くフランチェスカに追いつけずに、べそをかく子供はもういない。漆黒のコートに袖を通し、帽子を目深にかぶるアルヴィスの姿は、兄に見劣りしないほど立派に見える。今となっては、そうと気づかない間に立場が逆転してしまった。気を抜けば置いていかれる、遠くに行ってしまう、手をいくら伸ばしても届かないほど遥か彼方へ。
紙袋をあけながら、フランチェスカはひとつ息を吐き出す。踵を返す弟の背に、声ばかり不機嫌に言葉を投げつけた。
「……あんたも、無茶するんじゃないわよ。ちゃんと食べてるの、少し痩せたんじゃない」
「どうだかな。服のサイズは変わってないし、適度に食わないとクロスがやかましい。俺はいいから自分の心配だけしてろよ、Sis」
「どうしようもないわね、まったく」
「お互い様だろ。フランも働きすぎるなよ」
聞きなれたテノールが軽く言葉を紡いだかと思えば、かつかつと革靴の音を立ててアルヴィスの気配は去っていく。サンドイッチをつかみ出しながら見れば、紙袋は近所のベーカリーのものだ。作りたてらしく、トーストされたパンの表面がまだ僅かに熱を帯びている。おまけにフランチェスカの好む具が挟んである始末だ――まったく如才ないったら、と悪態をつくも、肝心の相手は立ち去った後である。
腹が立つ、両側からぬくぬくと守られて、なにもできないで、まるでわたしみたい。罪のないサンドイッチの具を恨めしく睨めつけて、フランチェスカはやつあたりするようにパンの端にかじりついた。