はじめて彼に、逢ったとき。
 ロンドンの凍るような雨にうたれて、新緑の眼を冷たい涙に潤ませて。淡い胡桃色をした髪を、青ざめた額にはりつかせて、夜の路地裏に彼はいた。
 肌寒いを通り越し、上着がなければ凍えそうな時期だというのに、彼の服装は薄いシャツ一枚で――だから、横を通り過ぎようとするその腕を思わずとったのは、それなりに良識のある人間としては、きっと当然だった。虚ろな新緑と視線が合って、一瞬何も言えなくなって、それでも数秒の間に真っ白になった思考を掻き集めて、ひとことだけくちにしたのだ。
 いっしょに来なさい、と。

 はじめて彼に、逢ったとき。
 何も考えていなかった。ただ異界の街の、この冷たい雨が、身体に残る熱の残滓も、頭を過るこの記憶さえも、全て流してくれればと、それだけ。だから気づかなかったのだ、反対側から歩いてきたその人物に、そっと手首をとられるまで。
 銀が縁取る白磁のかんばせ、女かと見紛う美貌の彼は、夜空色の瞳をついと眇める。まるで楽器の音色のような、甘い声で告げる――いっしょに来なさい、そのひとことだけで、決して強く引かれたわけでもないのに、この身は彼の持つ傘の下へと。
 雨垂れの途絶えた世界の中、ふわりと淡く花が薫った。

Prologue: 1. Encounter I

「――なんにも、きかないんだな……」

 自宅へ連れ帰った青年を、風呂場に放り込んで半時間後。貸してやった相棒の服を纏い、勧めた暖炉前の肘掛椅子に所在無げに身を縮めて、彼はそんなことを言った。漸く口を開いたと思ったら、一言めがそれであったので、アシュレイは読んでいた本から視線を逸らし片眉を上げる。確かに何も訊かなかった、暖炉では暖まらないほど青年が冷えきっていたからと、有無を言わさずバスルームに彼を率いていったのは事実だ。その疑問も尤もかもしれない、だがアシュレイからしてみれば、この世の終わりのような顔をして凍えかけていた彼を、そのまま質問攻めにする方が余程道理に反していた。そもそも、それ以前に、
 
「……訊いたら、話すのか」

 そう問えば、青年ははっとしたように動きを止め、言い淀むように暖炉の炎に視線を向けた。長い長い、静かな否定を孕んだ沈黙が降りる。やや居心地の悪いそれに、検事は小さく嘆息して本に注意を戻した。なにも語るはずはない、それは既に、彼の振る舞いや眼差しから容易く推測できていた。幾人も幾人も被疑者を起訴してきたアシュレイだから判る、青年の挙動からは疚しいことがある人物の不審さは感じられず、彼の振る舞いはどちらかと言えば被害者のそれに近い。本人が語らぬならば、急いて掘り返す必要はない。彼が抱えているのはおそらく内輪の問題、それに外野が首を突っ込む謂れなどありはしない――彼本人から助けを請われれば、またそれは別の話であろうが。
 さらさらと砂時計の中身が落ち切る。手にしていた本を置き、ポットからカップへ茶を注ぎながら、アシュレイは炎を見つめ続ける青年を安堵させようと、言葉を唇に乗せた。
 
「ならば、何も訊くまい」

 必要以上に夢中になって燃える暖炉を見つめていた青年が、目を丸くして振り返る。驚きに満ちたその視線に、しかし検事は動じず、ただ紅色をミルクへ流し込む作業に注意を向けたまま――ああ、だがひとつだけ。今更ながらに思い至った事柄にそう呟けば、また青年の肩が強張った。最後の一滴をカップに空けながら、アシュレイは顔を上げる。
 
「名前を。どう呼んでいいのかもわからないのは、不便だ」
「……なまえ?」

 それだけ、と拍子抜けしたように、青年は掠れた声で呟く。その言葉に検事が頷いてみせると、彼は言葉の意図を読み取ろうとするかのように暫し思案した後、ほんの小さな声で口にした。
 
「…………セドリック。セドリック・サージェント」
「そうか」

 名乗られたそれを口内で復唱しながら、アシュレイははちみつの瓶を開けた。冷えた身体には甘いものがいいだろう、清潔なスプーンで琥珀色をたっぷりと掬い、カップの中身へと溶かし込む。ポケットから出した名刺をソーサーに添えて、湯気の立つキャンブリック・ティーを青年へと差し出した。
 
「では――サージェント。紅茶をどうぞ」

 ゆらりと震える亜麻色の水面、その向こうで新緑の眼が、ほんの微かな笑みにようやく細められた。

出会いは凍てつく滴の許

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