二度目に彼と、逢ったとき。
今度はいつもの曇天の下、小洒落た店が軒を連ねる明るい道。その中のひとつ、赤の日除けと茶色硝子の窓の向こう、紅茶の店に彼はいた。
小さな茶色の袋を抱えて、鼻歌交じりに通りへ踏み出した彼は、あの雨の日とはうってかわって無邪気に微笑んでいて、この呪われた記憶力がなければきっと、同じひとだとは気付かなかったろう。重く濡れて額にはりついていた胡桃色の髪も、今日はふわふわと彼が歩く度に陽気に揺れて、新緑の瞳におちた雨垂れの影も遠く消え去っている。あまりに悲愴だったあの表情が、今はないことに安堵しながら、その笑顔にひかれるように、彼の許へと歩を進めた。街の喧噪の中、静かに声をかける――彼のちいさな歌声につられて、自然と口許が笑みに緩むのを、どこか遠く自覚しながら。
「――御機嫌いかが、サージェント」
二度目に彼と、逢ったとき。
整然と煉瓦の敷かれた道、両脇に商店の建ち並ぶ賑やかな通り。紅茶店の軒下で、覚えのあるその声は、人々のざわめきを飛び越えて確かに耳に届いた。
"御機嫌いかが、サージェント"。楽器のように甘やかなその音色は、聞き慣れた自分の苗字さえ、銀細工の如く繊細な響きをもって響かせる。姓で呼ばれることにはあまり慣れないが、これがこちらの風習なのだろう。それに、異邦人たる自分をこうして呼ぶのは、あの夜手を差し伸べてくれた彼でしかありえないから、その確信に笑みを深くしつつ声の主に視線を向けた。
思った通り、月光の髪に白磁の頬、ふわりと漂う甘やかな香りまで、間違いなく彼の雨夜の恩人。陽光の許、穏やかに微笑むその姿は、記憶の中のそれよりもずっとうつくしい。口ずさんでいた鼻歌を打ち切り、よろこんで彼に応える。相手を呼ぶ声が僅かに弾んだことには、まったく気づきもせずに。
「――やあ、ブライトン」
Prologue: 2. Encounter II
ああ、やっぱりきれいなやつ。喫茶店のテーブルを挟み、雨夜の恩人とつらつら言葉を交わしながら、セドリックが抱いたのはそんな感想だった。
あの冷たい晩に、闇の中から不意に現れた彼を見たとき、魔導師はついに自分がつらさのあまり気がふれたのかと思った。絶望に近いなにかに気力など失せて、独り凍えていたところを、唐突に端正な美貌の彼に手首を取られ、開口一番“ついて来なさい”である。ああとうとうあたまがおかしくなったかな、きっとこれは全て自分が逃避するために作り出した都合のいい妄想で、本当は壁の向こうの国も、前を歩く銀の髪のひとも、実際には存在しない代物のはずだ――そう思っていた、暖炉の温もりを前にして、甘い甘い亜麻色のミルクティを、たおやかな笑みと共に差し出されるまでは。
あまりにそのときの印象が強すぎたのか、彼の姿はまだくっきりとセドリックの脳裏に焼きついていた。ソーサーに添えられる整った細い指先、暖炉の光を受けて淡く光った眼鏡のレンズ。硝子越し、炎の揺らめきに彩られたその眼の蒼は、同じあおでも相棒の深遠な海色とは対極の、吸い込まれそうに澄んだ夜空を映していた。では、サージェント、紅茶をどうぞ――未だ耳に残る声は、色に喩えるならばやはり銀。洗練されていながらも円い、大切に奏でられたピアノの音色を想起させる滑らかな響きで、彼は魔導師の名を呼んだのだ。
「――サージェント」
「ふえ?」
そう、このように――そう思ったところで現実に引き戻されて、間抜けた声が零れる。まさに今、この瞬間、魔導師を呼んだ眼前の彼は、気遣うように軽く目を細めていた。
「ぼうっとしてるぞ。大丈夫か」
「あ。あー、ごめん。平気、全然平気」
うっかりこの前会ったときの貴方を思い出していました、なんて言えるはずもない。ごまかすように笑って、セドリックはコーヒーカップを口許で傾けた。少々恩人を美化しすぎているだろうか、それでも魔導師にとって、あの夜手を伸べてくれた彼の行動は本当に有難くて、それこそ言葉などでは表せないほど感謝している。限りなく不安定な自分の世界、ただのひとことで崩されかけたそれを拾い上げてあたためてくれたのは、いつだって頼ってきた相棒ではなく、アシュレイ・ブライトン――ビスケットと珈琲を挟んだ向こうに座っている、このうつくしい異国の住人だった。
「そうか?」
初対面であんな失態を晒してしまったからか、青年は尚も心配そうに目を細める。しかし、まあ貴方がそう言うなら、と肩を竦めてみせたので、きっとこれ以上の追及はしないだろう。出来る限りの笑みを作り、頷いてみせる。
「うん、平気平気。ありがとな――この前のことも、さ。本当に」
あの夜は結局、服が乾いていなかったため帰ることもできず、ソファとはいえ一晩世話になってしまった。運悪く次の日が仕事だったため、服が乾いたころを見計らって着替え、夜明け前に帰らせてもらったのだが、起きてから魔導師がいなかったことに、青年は少なからず驚いたことだろう。食卓にあったペーパーナプキンを一枚拝借し、手近な鉛筆で走り書きを残さなかったら、きっと雨の中うろついていた男を連れ帰ったことさえ、夢だと彼は思ったかもしれない。
「失敬かなとは思ったんだけど、仕事があって。ほんとはちゃんと挨拶して戻りたかった」
「そんなこと。――書き置きがあったから、心配はしなかったよ」
改めて無礼を詫びると、軽い手の一振りで青年は応える。返された言葉に安堵して微笑むと、眼鏡のレンズ越し、夜空色がおかしそうに細められて、軽口が降ってきた。
「なかなか個性的な字ではあったが?」
「うう……言ってくれんな? 自覚はあるよ、うん」
怜悧そうな印象からは少し意外な、親しみを覚えるからかい方に、ついセドリックも笑ってしまう。ひとめ見て知識階級とわかる彼と比べれば当然、学の足りない魔導師の字は貧相だろう――青年の流麗さはその筆跡にも表れていた、ブルーブラックのインクで紙片に刻まれたその名を眺めて、どうしたらこれほどまでに字が巧くなるかと首を傾げたここ二週間。また会うかも定かでないのに、結局あの名刺はポケットの中から手帳のページの間へと、その場所を移したまま捨てることはできなかった。否、会うかも定かでないからこそ、だったのだろうか。まさかこんなところでたまたまぶつかるとは、思いもしなかったけれど。
ああ、だがおそらく三度目の偶然なんて、とんでもなく低い確率だろう、なんでもかんでも雑踏に紛れていくこの技術の街では。その程度は、この国をよく知らないセドリックにも、容易に予想がつく。このまま談笑して、このまま何事もなく別れたら、またばったり会えるかはわからない。その思考が僅かな躊躇いを振り切って、魔導師は衝動的に言葉を発していた。
「――あの。実はさ、また二週間後に、この辺に来る予定があるんだ……」
言ってから気がつく――自分は彼の家を知っている。そうしようとさえ思えば会いに行くことも、戸口の下に手紙の一通でも挟み込むことだってできたはず、なにも今こうして焦らなくとも。ああばかだな、そう今更ながらに眉を顰めたところで、一度唇に乗せた言葉は撤回できない。回転の鈍い思考に少しばかり辟易しながら、セドリックは先程口にしようとした誘いを、眼前で首を傾げる青年へと結局告げることにした。
「予定、空いてる? ……またこうして、話でもしないか」
おそるおそる、テーブルクロスに落としていた視線を眼前の青年へと上げる。立ち昇る湯気と芳ばしい香り、その向こうで夜空の眼が淡く微笑み――“もちろん”、彼の銀色の声が、魔導師の望む言葉を紡いだ。