「せんせ。せんせー」
呼ばれる声にセドリックが振り返れば、まだ少女らしさが抜けない若い魔術師と、同じ年頃の憲兵とが、二階の踊り場から元気に手を振っていた。くすりとこぼれる笑いをそのままに、軽く拳を振り上げ、こらあ、と咎める。気のなさは明白だが、一応上官として注意はするべきだ、たとえそれが形式だけであっても。
「士官学校は卒業したろー」
「あっそうだ。ごめんなさあい、サー」
うっかりしたとばかり、へらっと照れ笑いしたトワイラが、上司と同じ緑のケープを揺らして階段を下りてくる。その後を追って、しかし一足先にセドリックのそばに降り立ったクロエは、物怖じせず三日月型に唇をもちあげた。
「じゃあ、ししょー!」
「うーん。もうちょっと魔術、勉強しときゃよかったなー」
「あっ。ひどい、ひどーい」
きゃいきゃいとケープを引いてくる黒衣の憲兵に笑い、セドリックは持っていた菓子の箱から、ひとつずつ部下たちに分けてやる。先日英国に出かけた際に、友人が持たせてくれた土産。上質な紅茶の葉が香るショートブレッドの缶を、手にしていたのはたまたまだった。彼女たちは運がいい、本当ならばこれはこの後、魔導師の同僚達とこっそり消費するはずのものだったから。
「あっ、おいしい、おいしいですししょー」
「いい香りー! サー、これどこで……?」
「へへへ、いいだろ。友達からもらったんだ、土産に」
ちょっぴり自慢すると、いいなーいいなーと少女達ははしゃぐ。幼気で素直なその仕草に、思わず頬を緩ませた。また手に入ったらください、おっ上司にたかるか気に入った。そんなくだらない言葉で笑いあって、セドリックはふたりと別れ廊下を急いだ。
「……ふふふ、セドリックせんせ、最近たのしそうね」
「ほっぺた赤いもんね。にっこにこだよね」
――去っていくその背後、元教え子の少女ふたりがにんまりと視線を交わしたことも、知らずに。
Prologue: 5. Restaurant Tastes
セドリックは無言になっていた。
向かいの席にはうつくしい友人、目の前には野菜料理の皿。本来ならば、読み飽きない本のような相手と、好物をふんだんに使った食事で、心躍らないはずもない。だが、問題はその味だった。フォークを手にしたまま、思わず硬直してしまったのを、目敏い彼にごまかせるはずもなく。
「まずいか」
「う」
図星を突かれ、魔導師は口許をひきつらせる。そこまで露骨に言われてしまうと、言い逃れる術はない。せめてまずいという言葉は避けたくて、あーだのうーだの言ったあげく、どうにか婉曲な表現を捻り出した。
「……俺の口にはあわないかも」
「こちらに寄越したまえ。交換しよう」
小さく苦笑した彼が、こちらに手を伸ばす。言われるがまま皿を差し出すと、代わりにテーブルの上をすっと彼の頼んだステーキの皿が滑ってきた。なんだか申し訳なくなって、僅か眉を下げる。
「なんかごめん……」
「構わん。どのみちここらの野菜は、貴方の売るものほど旨くないからな」
「えっ」
思わぬ言葉に顔を上げれば、検事は淡く微笑んでいた。セドリックがぱちぱちとまばたきをする間に、アシュレイはくすりとかすかな笑いを零し。
「頂いたよ、先日の野菜。ふれこみ通り、生でも火を通してもいけた。甘かったな、少しほろ苦くて――気に入ったよ」
「ほ、ほんとに」
「ああ。ああいったものを日頃から食べているのなら、これは厳しいだろうな」
煮込んだ野菜のスープを眺め、彼は苦笑する。くたくたに柔らかく煮込まれた何かの葉物は繊維が多く、なんとも言えない口当たりだ。ジャガイモも角が取れ、代わりに溶けだした澱粉がスープを濁らせている。おまけに野菜がメイン、肉はベーコンの欠片程度なので、頼りになるコクもほぼなし。素材そのものの味で勝負しようと言ったところで、ここまで火を通してしまうと、味はスープにとろけて薄れ、食感もまたばっちり殺されている。正直謎だ、だがここの料理人がよほど下手なのかと思いきや、アシュレイに取り替えてもらったステーキは悪くない。
「……ロンドンの野菜って、こんなもん?」
こそっと彼に問うと、平然と料理を口に運んでいた彼は苦笑して、パンに手を伸ばした。細い指先が、繊細な仕草でパンをちぎるのを、つい目で追う。――かぶりつかないのか、やはり彼はいいところの出身らしい。
「ああ、こんなものだな。――サージェントの故郷では、また違うのか」
「え? ああ、うん……故郷、も、そうだけど、かあさんが料理巧くて。うん」
下手なことを言うと、また先日のように藪蛇になりかねない。ひとまずごまかせば、彼は納得したように頷いた。百姓の出身で、おまけに料理上手な家族がいれば、とでも思ってくれたのだろう。
「どうりで野菜のスープなんてものを頼むと思った」
「え」
納得したような呟きに、思わず注目。彼は頭が切れる、もしや何か疑念をもたせるような言葉を口走ってしまったのか。内心だけで警戒していると、それさえ見抜いたのか、別に責めてないぞと笑われた。
「ロンドンでは大した野菜は手に入らんし、調理がこの様だ。労働者の食事にも向くとは言えん。だが敢えて野菜を頼むのは、この街の事情をよく知らないから。百姓なら、野菜を好むのも頷ける――育てているのは、私が見たこともない種ではあるが」
不思議そうに、興味深そうに、彼はスプーンをおいてセドリックをじっと眺める。純粋な好奇心が、夜空色の眼に宿っていた。
「サージェント、君はどこ出身なんだ?」
言葉に詰まる。一応相棒とふたりで、ざっくりと英国の地理は勉強しておいたものの、そのどこに行ったところで自分が育てているような野菜はあるまい。同じ国だから、料理だってそう大きくは変わらないはず。どう答えていいか解らず、ぐるぐるした頭のまま、ひとまず口を開きかけた。
「……えっとね、」
「――あっ、ごめんなさい!」
間近から、給仕の少年の悲鳴。客がいなくなったテーブルを片づけていたらしい彼の盆から、半分ほど中身の残ったグラスがこぼれ落ちてくる。さっとアシュレイが身を引いたので、グラスは見事に彼のスープ皿の中に着地した。ぱしゃり、と飛沫が跳ねて、検事の服を汚す。
「ああぁあぁごめんなさい、申し訳ありません」
「……いや、構わんよ。気をつけなさい」
「すみません。あの、すぐにお食事の、代わりを」
「――ああ、それについてひとつ、頼みがある」
だめになった食事を持ち、ぱたぱたときびすを返そうとする少年を、アシュレイは呼び止めた。泣きそうな顔をする彼の持つスープ皿を示して、安心させるように笑みを作る。
「差額は出すから、連れのものと同じにしてくれるだろうか。気が変わってね」
「は、はい。承知いたしました」
客の寛容な言葉に少年はほっと頭を下げ、そそくさと厨房へ取って返す。やれやれ、と上着に飛び散ったスープを拭いながら、アシュレイは軽く肩を竦めた。
「運がいいな。これでふたりそろって旨い食事にありつけそうだ」
「……なんかごめん、ほんと」
「構わん。ふふふ、終わりよければすべてよしと言うだろう、そう落ち込むな」
やはり検事の口にもスープは合わなかったらしい、代わりの食事に注文をつけた彼にしゅんと眉を下げれば、軽い手の一振りで謝罪は流された。その表情を伺うも、本当に気にした様子はなく、ほっと息をつく。
「ほら、先に食べないか。冷めてしまうと美味しくなかろう」
それどころかやさしく促され、言葉に甘えてセドリックはナイフを取り上げた。見た目通りに神経質かと思いきや、存外検事はおおらかそうだ。
* * *
その夜、アシュレイがスケッチブックを取り上げたのは、単なる気まぐれだった。紙を綴じたリングを避けて、左側のページに描き込んでいく。記憶を頼りに、陰影、目尻の笑い皺のひとつひとつまで再現して、描き上げたのはひとりの青年。今日の昼、向かい合って食事をした、あの若い野菜売りだった。
ページの余白に日付を書き込みながら、随分と明るく笑うものだな、と何となく思う。初めて彼に会ったとき、彼は涙さえ枯れたような顔をして、足取りもおぼつかずふらふらと夜道をさまよっていたから。なんとなくその表情の変化が気になって、ひとつひとつ思い返してみる。一度め、二度め、三度め、四度め。瞼を閉じて、脳裏に描いた彼の表情は、回を増すごとに明るく――いや、そうでもないか。唯一の例外を見つけて、ぱちりとアシュレイは目を開く。一度、退化した事例があった。頭の切れるあの黒髪の相棒が一緒だったときだ。当然、本人にも機嫌というものがあるだろうから、あまり深く捉えはしなかったが。
何気なく、今描いた絵をスケッチブックから破り取った。あの雨夜から、今日に至るまで。その表情の変遷を知りたくなって、スケッチブックの最後を開く。やはり手にリングが当たらないよう左側のページを選んで、さらさらと鉛筆を走らせた。
そうして、検事の夜は更けていく。ランプの灯りが消えるまで、没頭して描き進めたモノクロのスケッチには、雨の中涙を隠して佇む、ひとりの青年がくっきりと描き出されていた。