傍聴席だけにひとを詰め込んだような法廷は、ざわめきで満ちていた。まだ法曹人たちの気配はなく、集まっているのは一般人、そして事件関係者の家族だ。その中に混じる銀髪の青年を見留めて、眉をひそめる検事がひとり。彼の記憶が正しければ、彼の部下たるその青年は、この裁判の担当だったはずだ。
 
「ブライトン。そこでなにをしている、準備は」

 上長が声をかければ、青年はゆるりと視線をあげ、上品に微笑む。その表情に上長は思わず口を噤んだ。部下が斯様に笑うところなど、未だかつて目にしたことなどない。
 もう一度問いただそうと、上長が口を開きかけたその瞬間、法廷の扉が開き法衣をまとった者が数名入室した。しんがりを歩いてくるひときわ小柄な人影に、上長は開いた口が塞がらなくなる。
 
「――ブライトン……?」

 至っていつも通り、真顔でアシュレイ・ブライトン検事は検察側の席に着く。真っ黒な法衣も、華奢な美貌には似合わぬ形式張ったかつらも、いつも通りだ。
 どういうことだ。では隣にいるこっちのブライトン・・・・・はいったい。
 訳がわからず、上長は検察席から隣へと、おろおろ視線を巡らせる。その様子を眺めながら、そっくりなもうひとりの青年がさぞ楽しそうに笑んだ。

Prologue: 8. interlude III

「異議」

 ぴりりとした口調、ざわめきの中でもなお通る声は、木槌の音よりもクリアに法廷の空気を揺らした。
 物静かで表情を変えないアシュレイ・ブライトン、彼が唯一人並みに生き生きと動き回るのが、この法廷だけというのだからおかしな話だ。よく似た声、よく似た喋り方。この喧噪の中においても、その美しい言葉運びは隠せない。紛れもなく彼は貴族出身、銀のスプーンをくわえて生まれ、外見にも才能にも恵まれし者。
――そう、同じように。ゆっくりとした口調で、しかし的確に被疑者の証言を崩していく片割れを見下ろし、アシュベルは首を傾げる。同じ容姿、ほぼ変わらぬ声。だというのに彼の双子の弟は、あまりに彼と異なっていた。
 アシュベルが覚えている限り、アシュレイが笑うのを見たのはもう二十年以上前になる。アシュベルの記憶は確かだ。それこそ、あれから人形のように無感動になった弟と、まったく・・・・変わらない・・・・・程に・・
 三歳と四ヶ月、そして二十一日めのあの日に、双子の恵まれた日常はそれきり拭い去られた。こっそり片割れの顔を見に行く度に、アシュベルは否が応にもその口数が減っていくのに、その表情が失せていくのに気づくのだ。理不尽にアシュベルの世界から片割れは排除され、アシュレイは――
 
「――ご覧の通りだ!」

 空気を震わせる声が己のものとよく似ていて、アシュベルは思考から引きずり出される。人形のよう、久しくそうとしか思わなかった弟が、苛立ちも露わに語気を強めていた。
――今のあれは、想像ではあるまい?

「被告人は紛れもなく正気であり、責任能力があるのは明白だ。弁護側の述べた可能性は、考慮にすら値しない」

 おや、珍しい。数度まばたきをして、アシュベルは弟に注目する。それほど大きな声ではないが、アシュレイの言葉は圧倒的な説得力をもって、法廷を支配しようとしていた。
 眠れる獅子を起こしたか。にやりとしながら、アシュベルは足を組み片割れを眺める。アシュレイの逆鱗に触れたら最後、無事で済む輩はいないはずだ――アシュベルを怒らせればそうなるのだから、当然。口許を帽子の端で隠して、銀の伯爵は口許をつり上げた。
 それでこそ、私の弟だ!

*   *   *

 瓜二つなふたりの青年が、向かい合ってカップを傾けていた。髪の質も眼の色も肌の滑らかさまで同じ、相変わらず鏡写しのようなふたり。しかし当然ながら鏡ではないので、意外そうに身を乗り出す片割れに対し、もう片方は無感動な仕草で肩を竦めるに留まった。

「えっ。断ったのか。どうして」

 どうしても何も、わかりきっているだろうに。呆れ混じりに嘆息して、アシュレイは眼前で目を丸くする双子の兄を見やる。アシュベル・ブライトン卿とアシュレイ・ブライトン検事は、どうしようもなく似ていながらも、どうしようもなく正反対であった。この件についての価値観も、そのひとつである。
 
「私にはもったいない話です」
「だって、上司の方から切り出してきたんだろう。ご令嬢も、おまえを気に入っていると」
「……半年程前から気にかけるようになったそうです」
「ああ、その頃からおまえ、なんだか雰囲気がふわふわしてきたしね」

 半ばからかうようなアシュベルの言葉を聞き流し、検事は珈琲を口にする。伯爵家の当主であり、名実共に貴族然としている兄に、アシュレイ側の事情など分かるまい。だいたい雰囲気がどうのという指摘は上司にもされたし、同僚にも受けた評価で、そろそろ聞き飽きてきている。ようやく社会に適応できてきたと見れば悪くはない。しかし、こういった面倒ごとは御免こうむりたいところだ――上司の娘と、見合い話など。
 
「おまえ、恋人が?」
「おりません」
「なら、断る理由がないじゃないか。どうして」

 心底不思議そうな兄の顔を眺め、アシュレイは口をつぐむ。断る理由など、強固なものがたったひとつあれば充分だ。アシュレイ・ブライトンは結婚相手として相応しくない。誰が相手であってもだ。それは彼本人が重々自覚していたことであり、それを覆す材料は今のところない。
 アシュレイにあるのはそこそこ悪くない外見と、公僕としての地位、少しのお金、その程度。全て表面的なものだ。実際問題、中身などなにも伴っていない。相手への気持ちもなく、家族を支えるだけの覚悟も稀薄だ。一度抱え込んだら責任を持って養うだろうが、さらに負担を増やすことはきっと避ける――要は、子供をもつ気もない。
 このような者と一緒になって、相手がしあわせ・・・・になれるとでも。反駁が胸中で燻るも、言葉にはしない。言っても無駄なことだと、アシュレイはよく知っていた。アシュベルはよく口にする――母の胎の中からずっと一緒の兄弟だ、わたしがすることはお前にも出来る、と。
 だが、それは幻想なのだ。アシュベルに与えられ、アシュレイに与えられなかったものはあまりに多すぎた。それを彼は知らない。否、知ってはいるが、表面的にしか理解していないだろう。いつだって被害の程度をよく知っているのは、害を被った側なのだ。
 なにも答えず、アシュレイはコーヒーを呷る。まあいい、と軽く手を振って、アシュベルはその向かいでティーカップの紅い水面を揺らした。
 
「それはそうと、今日はめずらしいね」
「何がです」
「おまえがあのように声を荒らげるのは、はじめて聞いたから。なに、被害者と知り合いだったのか」
「そのようなことは」
「そう?」

 その割には苛立っていたからね、とアシュベルは微笑む。伯爵の指摘に、アシュレイはやはり黙り込むしかない。やはり腐っても兄弟なのか、双子の片割れ同士なのか、その指摘は嫌になるほど的確だった。
 らしくもなく、胃の中にどろどろと凝るような嫌悪感を覚えたのは事実だ。なにしろ、被害者の青年はあの友人によく似ていた。胡桃色の髪をふわふわさせた、純朴な野菜売り。顔立ちは無論みじんも似ていない。ただ、人を疑うことを知らないような、どうしようもなくお人好しそうな被害者のまなざしは、否応なくあの新緑の眼を想起させて――ひとたび像を結んだ彼の姿が、脳裏から消えてくれることはなかった。
 
「……気のせいでしょう。アシュベル、貴方は私に夢を見すぎだ」
「言うね。相変わらず、嫌になるほどの現実主義者リアリストだな」
「夢など見たところで救われますか」
「そうだね、おまえは無駄なことなんてしない主義だもの。恋だってそう」
「ええ、その通り」

 にべもなく頷くアシュレイの向かいで、アシュベルはカップを傾ける。伯爵らしからぬいたずらっぽい仕草で目を細め、頬杖をついた兄が発するのは、挑発だ。
 
「まあ、私はなんだかんだでその夢を見て、恋をして――叶えたけどね? それについてのご見解は、検事殿」

 細められた眼と、無感動に前だけを見る瞳。同じ蒼が、埋まらない温度差で視線をあわせた。
 
「残念ながら、ミ・ロード、幻想です」
「いやなやつ」

 カップをソーサーにおろして、アシュベルは冷笑。それはお互い様でしょう、そう告げてカップを空にしたアシュレイもまた、同じ表情を顔に張りつけていた。

スカイブルー、アズールブルー

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