Prologue: 9. Rainy Melody
「ごめん」
沈黙している相棒を前にして、セドリックはもう幾度目になる謝罪を口にした。先程からレスターは腕組みをしたまま、視線さえ合わせてくれない。ただひたすら窓の外を眺める騎士は、いっそ話を拒絶しているようにさえ見えて、魔導師は嘆息する。
「ごめん。だって、レスターと休みしばらく合わないからさ」
だんまりを決め込まれてはどうにもならない。肩を落として、魔導師は今一度歩み寄りの姿勢を見せた。相棒の機嫌が悪い原因は紛れもなくセドリックの所為だ。ひとまずその点については謝らねばなるまい――疑問を呈するのは、その後からでも充分だ。
ねえ、とレスターの袖を引くと、彼はしぶしぶと魔導師へ目を向ける。ようやくかけてくれた言葉は、その内心を反映したように辛辣だった。
「……だからって全く合わない訳じゃないだろ」
「そう言っても……レスター、いま臨時で休みとれる状況じゃないじゃん。俺だってそうだし――」
「次行けばいい」
「それじゃ日にち、過ぎちゃうよ」
「過ぎたって、行くことに意義があるんじゃねえの」
「そういうわけにはいかないって」
「仕事を優先しろよ。こっちは待ってくれないだろ、それと違って」
「そんなの――、だから俺ひとりで行ったんじゃん、おまえが抜けれないから!」
――ああ、しまった。瞬間的に脳裏を後悔が過るも、一度口にしたことは取り消せない。眼前で相棒が眦をつり上げて、セドリックは気まずく視線を逸らす。今そこで、レスターを責めたのは良くなかった。
魔導師の危惧通り、騎士の機嫌は下り坂の一途――しかもうっかり突っかかった所為で、見事に怒りを掻き立てたようだ。続けて口を開いた彼の声には刺があって、我知らずセドリックは冷たくなった指先を握る。
「あそこにひとりで行くなって言っただろ」
「……元々俺のとこだもん」
先程の罪悪感もあり、しかし引き下がるのは癪で、セドリックはつい拗ねた口調で応じた。しかしレスターも勝ち気な質だ、この程度の反論は通用しない。間髪を入れず飛んできた返答には、明らかな苛立ちが混ざる。
「大体あのチョコだって持ってくっつってたのに手に入らなかったじゃねえか、次まで待ってりゃまた探しに行くこともできたのに」
「――待ってよ。まさか、それが目的でわざと買ってこなかったわけ、チョコ」
「おい、見つからなかったって言っただろ! なんだよその言いぐさ」
「……ブライトンに見つけられておまえに見つけられないわけ」
「高く買ってくれて有難えけどな、俺は向こうの住人じゃないもんで。すんませんね信用ならん相棒でさ」
相棒から投げつけられた、皮肉たっぷりの返答。理不尽な疑いをかけたかと、一瞬反省しかけたセドリックだったが、申し訳なさはあっけなく消し飛んだ。ああまたか――そんな想いが胸中でくすぶり、冷たい怒りとなって腹の底を満たす。
「そこまで言ってないじゃん――なんだよ、もう」
「そう言ってるようなもんだろ」
机を挟んで、魔導師と騎士は睨み合う。レスターの眼の青が氷のように冷たくて、数秒の後セドリックは耐えきれず視線を逸らした。あんな目で見られたら叫びだしたくなる、泣きわめきたくなる。感情のすべてを叩きつけて、どうしてわかってくれないんだと詰問したくてたまらなくなるのだ。だがそれでは子供の喧嘩もいいところ。もう二十代も半ばの身、それは流石に矜持に関わる。
ふん、と鼻を鳴らす音がして、セドリックは唇を噛んだまま相棒へ視線を戻す。相手も相手で苦虫を噛み潰したような顔をしていて、冷えきった腹の底で笑いそうになった。彼もひとりで涼しい顔をしているわけにはいかなくなったわけだ、ざまあみろ。内心だけで、魔導師は相棒に舌を出す。それを知ってか知らずか、レスターが吐き捨てた言葉もまた、刺まみれだ。
「ったく、信頼がねえったら」
「……人のこと言えるの。ひとりで行ったくらいでそんな駄々こねてさ」
つとめてセドリックは冷静な声を出した。それが癪に障ったのか、レスターの語気はいっそう荒くなる。氷のような視線に至っては、実体がありさえすれば刺さりそうだった。
「駄々こねてんのは誰だよ。いい大人がそれくらいの都合にも対応できねえで」
「俺には大事なことなんだよ」
「こちとら心配してんだぞ」
「なにが心配だよ、戻ってくるって信用さえしてないわけ。チョコ以下じゃん」
相手の言葉をそのまま使って、セドリックは反駁した。もともとそれは、レスターがよく使う手段だ。どれほど有効かは長年見てきて知っている。相手の神経を逆撫ですることも承知だ。それどころか、いっそ怒ればいいと思った。昔みたいに殴り合いにでもなれば、少しでも気は晴れるかと――しかし。
「――もういい」
色の失せた薄い唇が、毒を孕んで開く。投げつけられた言葉は、幼い頃のような喧嘩文句でもなく、かと言って子供じみた罵倒でもなく、
「もう墓参りなんて、知るか。ひとりで勝手にしろ!」
セドリックそのものを否定するような、投げやりに議論を打ち切るそれだった。
* * *
冷たい霙が、空から降り注ぐ。久方ぶりに訪れた曇天の街は、晩秋の冷たさに早くも凍えていた。
ああそう、勝手にするし。それだけ言い残して、セドリックは足早に部屋を飛びだした。大人の矜持で午後の業務をどうにか済ませ、夕食抜きになるのを承知で、ロンドンへと壁をくぐり抜けたのだ。そう何度も壊滅した故郷へは戻れない――あそこは現在、そもそも立入禁止区域だ。墓参りのために年一度訪れるだけでも危険なのに、よもやそこへ足を向けられるわけもなかった。
代わりに止まり木として選んだのは、アシュレイの住まう集合住宅の殺風景な一室だった。必要最低限の調度品のみが、まばらに置かれた端の部屋。二脚ある椅子の存在だけが、定期的に誰かが訪れるのだろうとかろうじて思わせる。しかし、手入れの行き届いた図書館のような、なにも動かないが澄んでいるその空気が、セドリックは気に入っていた。
「珍しいな、平日に」
少々目を丸くして、たった一言。それだけで検事はなにも訊かず、セドリックを部屋に通した。気の利いたことが頭に浮かばず、魔導師はただ頷く。気にした様子もなくアシュレイは頷いて、食卓へセドリックを誘った。
「おあつらえ向きに夕飯時だ。簡単なものだが、いいかな」
「……いただけるだけでありがたいです……」
アポなし、おまけに夕食まで。申し訳なくなってセドリックがぽそぽそと呟くと、目の前に紅茶が置かれた。ミルクと一緒に添えられたのは、蜂蜜の小瓶だ。思わず友人を見上げると、蒼の眼が僅かばかり愉快そうに微笑んだ。
「私もね、今夜はひとりで過ごしたくないと思っていたのだよ」
「……そうなの?」
「ああ、兄が来ていてね。少々不愉快な方へ会話が流れてしまった」
肩をすくめ、アシュレイは台所の方へ踵を返す。きらいなものはないか、そう肩越しにかけられた言葉に、うん、とどうにか一言返した。
*
音楽は好きか、そんなことを言ってバイオリンを手にした検事の言葉に有難く頷いたものの、この時ばかりセドリックは己の耳の良さを恨んだことはなかった。
穏やかな旋律、アシュレイの腕は確かだ。窓辺に立ち弦に弓を滑らせる彼の姿は猫のようにしなやかで、その育ちの良さを感じさせる。しかしメロディの中に潜む一抹の堅さを聴き逃がせるほど、魔導師の音感は鈍くはなかったらしい。
きっと、恋人兼相棒のだれかさんならば、まったく何も気づかずに検事の演奏に賞賛を贈ったのだろう。そう思うと、なんだかとても複雑な気分になる。
「……巧いなぁ。どこで習ったの」
「子供の頃、実家で――まあ、一般教養の範囲だ」
「一般」
「だろう?」
「……俺の知ってる一般、じゃないかな」
「そうか。それもまあ、悪くないな。一般以上のものを君に聴かせられる」
窓ガラスの外、きらきらとガス灯の光に雨粒が反射して、それに照らされた検事の色彩を危うく見せる。炎の色を映す淡い髪、深遠な夜空の眼。白磁の肌さえ、どこか血の気が引いた人形のよう。弓を操る細い指先までもが、整いすぎていっそ作り物めいていた。
弦楽器の音色を聴きながら、薄明かりに照らされた彼を眺めていると、夢の中にいるような錯覚を起こす。現実と空想の境目が曖昧になって――あぁ、此処は何処で、俺はなにをしていたんだっけ、そんなとんちんかんな思考が脳裏を過る。そもそも壁の向こうの国は、俺が作り出した妄想じゃない……?
「――サージェント?」
いつしか曲は終わっていて、サファイアの色をした双眸が不思議そうにセドリックを眺めていた。ゆるりと首を振り、一度瞑目して立ち上がる。どうやら最近根を詰めすぎていたらしい。思えば相棒とも――いや、やめておこう、こんな状態でその思考は毒にさえなりうる。
「……なんでもないよ、ブライトン」
席を立った勢いのまま、セドリックは検事の隣をすり抜けた。窓辺に立ち外を眺めれば、相変わらず滴をこぼす空。雨垂れは相棒の領域だ。詠唱を行うきりりとしたバリトンは未だ耳に残り、あの紅い制服の背中を、鮮明に想起させて――あぁ、馬鹿だな、先程考えるなと、自分に言い聞かせたはずなのに。ここは英国、夜空を瞳にもつ銀の青年が住まう地である。いま相棒は遠く壁の向こうだ。しばし彼のことを忘れたところで、責める者はいないはず。
「――なんでもないようには、見えないがな」
ぽふんと背中に軽い感触、柔らかなひとの気配。危うげな色彩、先程そう思った検事が、確かな存在感をもってそこにいた。背に寄りかかったまま、彼は指先で弦をはじく。ぽろん、ぽろん、雨垂れのような音色が零れて、窓辺で散る水滴のように、余韻を残して霧散した。
なんでもないように見えない、そう言った彼の奏でる音色も、それこそなんでもないようには聴こえなくて――それでもそうして気遣ってくれるやさしさは、ほんの一抹、愛おしさにも似た気持ちを呼び起こさせた。日頃はつんとすました印象なのに、沈んでいると察するなり慰めにくる言動は、やはり滑らかな毛並みの猫を思わせる。僅かばかり頬を緩ませ、やさしい白猫の名を呼んだ。
「……ねえ、ブライトン」
すいと視線を上げる、その眼差しは美しい。宝玉のように透る蒼に、ぽつりと問いかけた。
「大切なひとにさ、わかってもらえなかったら、どうする…………?」
ぱちり、見つめた蒼がまばたきをする。次いで長いため息を彼は洩らして、そっと手にした楽器をおろした。
「それで、そんなに沈んでいるのか」
「…………、」
小さな声は、どこか呆れたような――いや、これは安堵か。解ってもらえなかったのかと、落胆しかけたのは杞憂で済んだらしい。答えを吟味する彼の横顔は真剣で、セドリックの心を軽くしていく。考えてくれている、彼が、自分のために。
「感情的になったところで、どうにもならん」
短い沈黙の後、彼は呟くように口にした。その言葉に、覚えたのはやはり落胆――彼もやはり冷静で、子供じみたこんな感情に振り回されることはないのかもしれない。これは大人になりきれない己の問題で、アシュレイにがっかりするのは間違っている。とは言え、どこかで彼に縋りたかったのか、落ち込んだ気持ちはどうしようもなく、ため息をひとつ零した。
「まあ、そう落ち込むな。詰るつもりではないのだよ」
寄りかかった背が、軽く押される。振り返れば、気遣うような眼差しが静かに見上げていた。その真っ直ぐさにどうにも引け目を感じて、そっと視線をそらす。すると背後で彼も前を向き直したのか、ほんの少し遠い銀の声が肩越しに降ってきた。
「……考えながら喋っているようなものだ。あまりまじめにとらないで貰いたいが」
珍しく芯がぼやけたような彼の言葉に、小さく頷く。彼だって今日は楽しく過ごしたわけではなさそうだ。多少思考が逸れていたところで、おかしくなどない。
ややあって、アシュレイは細く息をつく。誰にともなく言うような、独り言に近い言葉が、ぽつりぽつりと降ってきた。
「大切なひとだろうが、血を分けた兄弟だろうが、所詮自分自身ではない。自分の考えをすべて解ってくれるかといえば、そうではない」
「……うん」
「親しい分だけ、限りなく近い思考を持っていたとしても、同一ではない――むしろ、近いだけに許し難いこともあるかもしれん」
検事が慎重に発した言葉は、セドリックの注意を引いた。もしかして、彼も。そういえばアシュレイも、兄に会ったと言っていた。兄に会ったから、あまりいい気分ではないというようなことも。肩越しに振り返って見つめれば、彼は視線に気づいたのか、ご明察だなと苦笑した。
「――兄は、どうやら私に苛立っているようでな」
「……そうなの?」
「兄と私は双子だ。一番近い相手でありながら、あまりに違うことが多い。きっと彼は私に、自分のようになって欲しいのだろう」
閑話休題、と彼は肩を竦めて、バイオリンの弦を爪弾く。ぽろん、ぽろん、こぼれた音は、窓の外で飛び散る雨垂れのよう。
「……でも、それって――つらいよな」
茶色硝子を伝う痕跡を眺めながら、セドリックはぽつりと呟く。ブライトン兄弟に、レスターとセドリック。今日だけで、ふたつのすれ違いが起こっている。それぞれ理解してくれない相手を抱えて、悩むのもまたふたり。
「近いから、許せないって。一番近いひとなら、解ってあげたいものじゃないのかな」
「君はやさしいのだな」
「……そうかな。否定したくないだけだよ、相手を」
大事な相手だから、はねのけるようなことはしたくない。願わくは全部理解して、包み込んで、受け止めてあげることができたら。しかし、その力がセドリックにはなくて、レスターは他に拠り所を見つけている。否、それともレスターにとって、セドリックはトラブルまみれの重荷にすぎないのかもしれない。
だが、離れるならそれでいいと、割り切れる関係でもなかった。セドリックにはレスターしかいない。他に寄りかかれるところは、とうに全て失った。彼を引きずり落とすと解っていても、縋るしかないのだ。手を離せば彼は立ち上がるだろうに、弱いセドリックにはそれもできない。せめてレスターの負担を軽減しようと、飲み込めることは飲み込んで、わかったふりをするしか。
「……でも、わからないんだ。わからないから、ついついかっとなっちゃって、喧嘩になってさ。――くるしいよ」
ぽろっと吐露すれば、背後の気配は僅か緩む。声で判る――僅か微笑みながら、彼は静かに口を開く。その内容に、セドリックは一瞬言葉を失った。
「私は君を見習うべきかもしれん」
「――……?」
相手が故郷の相棒であったなら、当て擦りかと疑うところだったろう。だがアシュレイの声音は真摯で、そこに裏の意味など一切なさそうだ。
とはいえ、彼の言葉を額面通りに受け取ったところで、それは理解の範疇を越えていた。気の利いたことも言えず、セドリックは鸚鵡のように繰り返す。
「見習う?」
「ああ。君は、まだ相手をあきらめていないから」
「……あきらめる……」
「ああ。私はとうに投げ出した。修復には歳月が経ちすぎた。もう今更、どうなるとも思えん。歩み寄ってくれる相手ではないし、私も斯様にまるい性格はしていないからな」
小さく息をついて、アシュレイは目を細めた。その仕草は、ほんの少し羨ましそうでもあり、寂しげでもあって、セドリックは口をつぐむ。
最悪の状況。そうとしか思えなかった現状は、彼から見るとそうでないのか。ならば、まだどうにかできる余地はある?
己よりはるかに賢しい彼へ、答えを求めて振り返る。だがセドリックが乞うより早く、アシュレイは魔導師の望む言葉を口にしていた。
「……サージェント、きっと君はそれでいいのだ。理解できないものを理解しようとすればつらい。飲み込めないものを飲み込もうとするのは苦しい。だが君にとって、その相手にそれだけの価値があるなら」
ぱちり、暖炉で薪が脆く崩れて、灰になる。舞い散った火の粉より明るく、彼の言葉はセドリックを照らした。
「私はその努力に、敬意を払うよ。――君の想いは間違っていないと、信じている」
近いからこそ、ぶつかって。近いからこそ、解りあえなくて。それでもいつかは、また手を取り合えるだろうか。背中合わせで膝を抱えるような、こんな関係ではなく――もっと、傍に。隣に立って、笑いあって。かつてそうだったように、戻れるだろうか――アシュレイは兄と、セドリックはレスターと。
「……おれ、……おれたち」
口にしかけて、言い直す。やさしい彼の傍にも、彼の大切なひとが戻るように願って。
「まだ――だいじょうぶ、かな。おれたち」
「ああ。……ああ。君も、私も……な」
肩越しに振り返った彼は、つたない問いにもしっかりと頷いてくれる。淡く微笑みを浮かべたその眼差しは穏やかで、セドリックはなんだか泣きそうになった。
セドリックに背を向けたまま、検事はまたゆるりと弓を上げ、バイオリンを奏で始める。雨音にあわせて彼が紡ぐ淡い音楽は、僅かに雲の隙間から差す月明かりの如く、かすかな明るさを帯びていた。気を遣ってくれたのだろうか、それとも話をしたことで少しは彼の気も紛れたのか。雨上がりを待ちわびるようなメロディは、引き込まれるような哀愁をその音から消していた。
背中の仄かな温もりと、柔らかく流れる旋律、歌うような楽器の音色――まるで奏者本人の歌声のようなそれは、確かに故郷で待つ現実へと背を押してくれそうな、そんな気がした。