Prologue: 10. Sketches, True to Life

 金曜の午後、ちょうど定時頃。そろそろ外套を着ないと寒いか、そう思案していた中堅検事の執務室に現れたのは、早くもしっかりとコートを着込んだ部下の青年だった。銀の髪、蒼の瞳。分厚い袖口から覗く指先は、相変わらずしなやかで細い。

「失礼いたします」
「ああ、ブライトンか。お疲れさま」

 軽く一礼する仕草まで、美しく洗練されている。内心だけで中堅検事は嘆息した。アシュレイ・ブライトンは己自身についてとんと関心がない。若手の検察官としてはずば抜けた能力、ほぼ文句のつけどころのない容姿。物の言い様もしっかりしているし、きっとあの喋り方は上流階級の出身だ。新人として配属された頃こそ、どこか冷淡そうなその対応は懸念であったが、今はそうでもなく思える。先日のあの法廷で、彼は被害者の無念を見事に晴らしてのけた。論理と立証は完璧なまま、そこに若者らしい正義感と情熱をもって。
 まったく、本人に自覚がないのが悔やまれる。どの口が言うのだ、”私のような者に、とんでもない”などと。釣り合わないと言って見合いを辞退されたなどと、心待ちにしている娘にどう伝えればいい。
 
「どうした、この時間に」
「はい。お引き留めして申し訳ないのですが、お話がありまして」
「かけなさい。君がそのようなことを言うのは珍しい」

 アシュレイが神妙に切り出して、中堅検事は目を丸くした。椅子を勧めれば、長い話ではないのです、と彼は首を振る。彼らしい遠慮の仕方だが、ますます気になる。
 
「どうした。話してみなさい」
「――先日、辞退を申し上げたお話ですが」
「辞退――なに、娘との見合いのことか?」
「はい。……失礼ながら、今からでもお受けできればと思いまして」
「えっ」

 思ってもみなかった彼の言葉に、中堅検事は思わず絶句する。背筋を伸ばして佇んだまま、眼鏡越しの蒼いまなざしはぶれることがなかった。

*   *   *

 まあ、喜ばれたからよかったのだろう。やれやれと首を傾げながら、アシュレイ・ブライトンは深いため息をつく。辞退したときの上司の表情、そして昨日それを撤回したときの笑顔。どう娘に言おうか困っていたんだよきみ、と叩かれた背中が、まだ暖かい気さえする。

「どうかした?」

 馬車の中、隣に座った友人が首を傾げる。ここのところよく遊びに来る彼に、隠し事は難しい。小さく肩を竦めて、アシュレイは膝に抱えたスケッチブックを持ち直した。
 
「昨夜、帰り際に上司と話をしてな」
「え、なに。おこられた?」
「いや……辞退した事柄があったんだが、撤回したんだ。たいそう喜ばれた」
「そうなの? なら、よかったじゃん」

 にこにこ、セドリックは自分のことのように笑って、肩に寄りかかってくる。ひとの気配を不快に感じなくなったのも、思えば彼のおかげかもしれない。先日の会話をぼんやりと思い出しながら、アシュレイは小さく微笑んだ。
 
「ああ、本当にな。兄の言いつけを久し振りに聞き入れたよ」
「おっ。そうなの」
「うむ――君を見習うことにしたと、言ったろう」

 アシュレイからも寄りかかるようにして彼を軽くつつけば、隣で笑い声があがる。そっか、そっかあ。うんうんとセドリックは頷いて、心底嬉しそうだ。
 
「サージェント?」
「うん、ふふふ。よかった、よかったなぁ」
「言うほどか」
「お兄さんと仲良くしなくちゃだめだよ、ブライトン。家族なんだからさ」
「……そういえば、君は」

 以前、ひとりだと言っていなかったか。流石にそこまでは言葉にできず、アシュレイは口をつぐんだ。家族は大事だと、ことあるごとに強調する彼。相棒だというあの男も、きっと親類ではないのだろう。そう考えると、セドリックの言葉は重い。
 
「――なにー、ブライトン」
「……君は、仲直りできたのか。大切だというその方と」

 とぎれた言葉を繋ぐために、真っ先に思い浮かんだことを問う。アシュレイの言葉に彼はまばたきをひとつして、口許だけで笑んでみせた。
 
「うん。なんとかな……もっと、がんばらないと」
「そうか」

 なるほど、正直なひと。淡い色のまつげが震えるのを眺めて、アシュレイは前へ視線を戻した。どうも、彼の抱えている問題は若干、根深いようだ。

 駅で馬車を降り、汽車で一時間。たどり着いた郊外の町、何もない丘の上でアシュレイはスケッチブックを開いた。隣に腰を下ろしたセドリックも、同じように画材を準備している。ロンドン中心部とは趣の異なる澄んだ風に、ふたりで目を細めた。

「やれやれ。たまにはこういうのも、悪くないな」
「ロンドン、結構けむいもんなぁ」
「ここにも汽車で来たことだし、文句は言えんが……少々思うところはあるな」

 便利な時代になった、それは間違いない。先人がそうしていたように、ここまで馬車で来ていたら、きっと日帰りでとはいかないに違いない。電報が発達して、伝書鳩は廃れつつある――身近に鳥を使う人物がいるのが、なかなか不思議なほど。
 
「そういやサージェント、電報の使い方は覚えたのか」
「え、えへへ」
「……きみ、なかなかの懐古趣味なのだな」
「田舎もんだもん」

 そういう問題かと言うより早く、彼は傍に咲いていた花にやたらと興味を示して、握った鉛筆をかざしてみたりしている。やれやれ、ここでつつくのも可哀想か。小さく息をついて、鉛筆を紙に走らせた。
 
「……鳩は元気か」
「――うん、げんきげんき。ブライトンのところから戻ってくるたびにつんつんやられて、うざったいくらい元気ったらない」
「……きみはあの鳩に恨みでもあるのか……?」
「どっちかっていうと鳩に恨まれてるんじゃない」

 ぷー、と唇をとがらせながら、セドリックは花に夢中だ。その顔があまりにも愉快で、アシュレイは今描いていた景色に消しゴムをかけた。アタリを取り直し、隣で花に鉛筆を構える人物を加える。ちょっと拗ねたような表情もざっくり描き加えると、つい喉の奥から笑いが洩れた。
 
「――なーにわらってるの、ブライトン」
「いや、すまん。……きみの話が、愉快だった」
「なに、鳩が?」
「きみは鳩にも――親しみをもたれるのかと」
「素直にナメられてるって言っていいよ、もう。みんな言ってるし」

 つんつんとそっぽを向くその仕草にも、アシュレイは笑うばかり。胡桃色の猫っ毛しか見えなくなった彼の後ろ姿を横目に、紙面に描き出していくのは、先ほどの拗ねた横顔だった。

「なにこれ」
「……なにこれと言われても……見たとおり、絵だが」
「うそだ。なにこれ。……どんな魔術つかったの一体」
「魔術」

 酷い言いようだ、と苦笑すれば、実に不機嫌そうな眼差しが返ってきた。先ほどからセドリックの視線は、アシュレイの顔からスケッチブックの絵、さらにアシュレイの指先へと忙しい。
 彼が横から手元をのぞき込んできて、それが押し問答の発端だった。勝手にとるな、見るなと言ってしまえばそれまでだが、どうも斯様なことを言う気にはなれず、アシュレイは彼にとられたスケッチブックの端を軽く引くに留まる。すかさずひょいと引き返された――曰く、待ってよ、まだ見てる。
 
「鉛筆……鉛筆で、こんな?」
「色鉛筆、だ。正確には」
「鉛筆だよっ。鉛筆は鉛筆じゃんか」
「うむう」

 かみつきそうな勢いで言われて、アシュレイは困惑した。なぜ友人が睨むように絵を見ているのか、とんと見当がつかない。気味悪がられるのが関の山と思っていたので、完全に予想外だ。見せる予定がなかったから、つい手癖で鉛筆を動かしてしまったのが災いした。今セドリックが見ているページには、誰が見ても彼と解る人物が鮮明に描かれている。
 そんなに拗ねた顔を描かれたのが嫌だったのだろうか。しかしそれを言ったら、彼が手にしているスケッチブックの前のページには、もっと酷い表情がいくつか描かれている。無心で記憶から描き出して、仕上がってから気づいたのだ――あれを見られたら、いったい何と言われることやら。
 
「――いいなぁ!」
「……は」

 しかし、セドリックの口から飛び出したのは羨望の言葉で、アシュレイはまたもや絶句した。睨むような視線は未だ健在だが、優しく絵の表面を撫でる手つきは丁寧で、不思議そうだ。
 
「なに……なんだこれ……すげー、」
「……サージェント?」
「すげぇ、ほんとすげぇ……俺もこんな風に描けるようになりたいよ。どうやったらこうなるの、なに食べてるの」
「食べ物なのか」

 つい笑うと、セドリックも発言の滑稽無双さに気づいてか、えへへと苦笑した。
 
「だってすごいんだもん。鏡みたいだよ、これ」
「鏡……」

 写真ではなく、か。彼の形容の仕方を不思議に思って、アシュレイは首を傾げる。するとセドリックはしまったというような顔をして、いや、と意味もなく弁解した。
 
「だって、すごくてさ……」
「う、うむ。ありがとう」

 ようやく礼を言うと、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。それにつられて、アシュレイも自分の頬が緩むのに気づく。何度かこうして過ごして気づいたが、彼の笑顔はどうやら伝染するらしかった。
 
「――もっと、描こうか」

 どうしてその提案を口にしたのか、アシュレイにもわからなかった。ただぽろりと、何の他意もなく、考えなしに口からこぼれた言葉。しかしセドリックは目を輝かせ、いいの、と身を乗り出してきた。
 
「描いて、描いて! 描くとこ見たい」
「う、うむ?」
「だめかな? あ、嫌なら、別にいいんだけど……よかったら、見たい」

 よかったらと柔らかく言いつつ、彼の眼差しは真剣だ。半ばその勢いに気圧されそうになりながら、アシュレイはまた色鉛筆を手に取った。

 あのさ、これ、もらってもいいかな。絶対、だれにも見せないでおくから。その言葉に頷いて渡した絵の束を、セドリックは大切そうに抱えて帰って行った。あのスケッチブックも今日で描き納めだが、それでよかったのかもしれない。普通であるために、あれは邪魔なものだから。
 下手に悟られてはならない、多くに知られてはならない。世間の認識では、アシュレイの能力は異端だ。よくて変人、悪ければ異常、病気だの悪魔に魂を売っただの、散々な言われよう。そうしてアシュレイは片割れと引き離され、同じ力を隠し持ったアシュベルは、アシュレイを隠れ蓑に免れた。
 だが、今は双方が大人で、実家から離れたアシュレイのことを深く知る者はこの街にない。兄の言うとおり、やり直しが利く状態。アシュベルがアシュレイにうるさく言うように、ふつうのひと・・・・・・で在ろうとするなら、今度こそ隠し通さなければならない――兄が、そうしているように。
 またそれが、もしかして妻になるかもしれない女性と、義父になるかもしれない上司へのためでもあるのだろう。後ろ指を指されるような婿は、おかしな脳みそを抱えた部下は、きっと要らないはずだ。
 ああ、だが――遠くなっていく友人の後ろ姿を脳裏に描いて、アシュレイは独り、暖炉の前で嘆息する。斯様に手放しで称賛されたのは初めてだった。今まで白い目を向けられ、同類である兄によってまで圧し隠された能力の発現が、喜んで受け入れられたことなど。願わくは、毎日このようであればよかった。アシュレイはアシュレイだ。それは変えようがない。隠して、押し殺して生きていたら、いつか窒息してしまいそうだった――自分らしく生きていても結局、周りに首を絞められただけだろうが。
 
「……もう、眠ろうか」

 暖炉の火をかき消して、アシュレイは立ち上がる。先日、雨の日の夜に訪れた友人を描いたページに、鉛筆で書き残したひとこと――それは、自分が誰かにかけてほしかった言葉に他ならなかった。

”願わくはきみがきみらしく、
思いのままに過ごせるよう"

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