Prologue: 11. interlude IV
ウィルバー・スタレットは苛立っていた。
最近同僚と兄がおとなしいと思っていたら、今度はこれか。信じられない。僕の安息の日はいつ訪れるのだと内心で嘆いても始まらない。起こった事態はもれなく収拾しなければならず、なによりこれが解決しなければウィルバーの監督責任だ。保管庫から留意事項つきの薬品が紛失し、あまつさえ悪用でもされれば、始末書では済まない。
眼鏡を軽く押し上げて、第七魔導師は大研究室全体に睨みをきかせる。今年入ったばかりの新人達、少し前まで先生とウィルバーを呼んでいた部下等が、ひぇっと小さな悲鳴をあげて縮みあがった。
「どういうことか、説明を。授業でも言ったはずだよ、報告・連絡・相談は徹底するようにって」
「も、もうしわけ……」
「それはもういい、わかったから。僕が聞きたいのは謝罪じゃない。状況が知りたいんだ。情報を僕に提供できない奴はこの際、喋るな。誰かいないのか?」
強い口調で詰問すれば、部下達は不安げに顔を見合わせる。喋るなと言ったら全員口を閉じてしまった。うんざりとウィルバーはため息をつく――関連する情報ならいくらでも声に出せというのに、まったくこのひよっこどもは。九年前の自分を棚に上げているようだが、今はそのようなことを考えている暇もない。
「……わかった。各自、最後に瓶を見たのはいつだ」
「三日前です」
「一週間前……」
「四日前くらいに」
「僕も」
「私も」
「一昨日、保管庫の鍵を閉めたときはありました」
「今朝見たら、なかったんです。――てっきり誰か、実験に出しているのかと」
泣きそうになりながら報告する部下にため息をついて、ウィルバーは苛々とスカーフの結び目を指先でつついた。
「そいつは二級留意事項つきの薬品だから、持ち出せるのはヴァネッサと僕だけだ。――ヴァネッサ副長」
「イエス、サー」
「君はあれを実験に持ち出したか?」
「いいえ」
真顔で副長は首を振った。色のない髪がふわりと揺れて、朱の眼がウィルバーを見上げる。
「あれの実験準備はまだ整っていません。明日のはずでしたので、まだ保管庫に安置してありました」
そうなれば、管理表への記入漏れでもないだろう。無論、ウィルバー本人は件の瓶に手も触れていない。眉がきつく寄るのを自覚しながら、第七魔導師はかぶりを振った。なんてことだ、なんてことだ。
「じゃあこの時点で持ち出した馬鹿は規律違反ってことだ」
「そうなりますね」
「一昨日の夜はあって、今朝はなかった……昨日は? 昨日見た奴はいないのか」
再び、沈黙。もううんざりだ。昨日自分で薬品を取りに行くようなことがありさえすれば、自分で確認できたのに。面倒だが、この際保管庫の見回りを日々の業務に加えるべきだ。残業分はしっかりと請求してやる、ちくしょう。内心だけでウィルバーは悪態をつきまくる。
また黙り込んだ部下達の注意力を問いたくなったところで、大研究室の戸が開き、ばたばたと中堅の部下が駆け込んできた。その手にはかしゃかしゃと鳴る紙袋が握られていて、ウィルバーは顔をしかめて一喝する。
「ボリス、研究室で走るな!」
「すみません、サー。……その、こんなものが、みつかりまして」
ウィルバーのいる机の辺りまでやってくると、部下は紙袋を開く。中でしゃらりと鳴ったのは、ほぼ原形をとどめていない哀れな薬品の瓶だった。かろうじて残った底と、栓のはまった瓶の口が、かつてこれが保管庫に並んでいたものだと思わせる。ラベル部分に至っては、もはや裏にガラスの破片をびっしり貼りつけた紙切れだ。
「サー、もしかしてこれは」
「……こいつか」
薬品が染みて滲んだインクの軌跡を眺め、ウィルバーは苦い顔をした。粉々もいいところの瓶、誰かが落として割って、それを知られたくないが為に隠したのか。子供じみた発想もいいところだ、腹が立つ。
だが責任を問うよりも、事実確認が先だ。まずはこれが件の薬品なのか、調べなければならない。
「アニタ、ケイト、これを実験に回して、すぐに。可能なら残滓を水溶液にして、マウスに投与。紛失した薬品と類似の効果が表れるかどうか調べる」
「い、イエス、サー」
「サー、この薬品はどんな……?」
顔をしかめて紙袋を受け取る部下に、ウィルバーは書類の束を差し出す。そこには前回の実験結果が、神経質な字でびっしりと記してあった。
「興奮剤だよ。――うっかり破片で手を切ったりするなよ、それはもう酷い目に遭うからね」
* * *
王都のはずれ、商店街の端っこに佇む小さな花屋で、セドリックはどこか恋しい気配をみつけた。
店先から漂う、甘い芳香。馴染みの店で買い物をした帰り、それにつられて魔導師は足を止めていた。バニラのような、だがそれにしては凛と芯のある香りはどこかで嗅いだことがあって、セドリックの気を惹く。見えない糸で引っ張られるようにふらりと店をのぞき込めば、カウンターにいた店主とばっちり目が合った。
「おや、いらっしゃい。魔導師殿」
「ど、どーも」
にこり、整った顔で微笑んだ店主は男か女かもわからなくて、セドリックはどぎまぎと返答した。その目の前にはいくつかの小瓶が並んでいる。見るとそれはコロンのようで、セドリックは物珍しさにカウンターの上を注視した。
「……珍しいっすね、花屋さんでコロンって」
「惜しい、これは香油。コロンよりもう少しとろっと重くて、香りも強く残りやすい」
「……どっちにしても、珍しいっすよ」
「そうかな。花屋が花の香りのものを作るんだ。そこまでおかしくないだろう?」
ぱちりとウインクをされれば、なんだかそんなような気もしてくる。まぁそうっすかね、そう頷いて、セドリックは改めて香油の瓶を眺めた。
瓶の形自体は、どこにでもありそうなコロンのそれだ。だがセドリックの目をひいたのは、その色合いだった。一般的な茶色硝子ではない――光を通さない深い色は、美しい青紫だ。黄昏の終わり、夜明けの始まり。そんな時間帯にだったら、空はこのような色に染まるだろうか。
「……きれいだなぁ」
「だろう。瓶もこの子専用なんだ。なかなか骨が折れたよ、この子を抽出するのは」
「……そんなに?」
「花が小さいからね、香りもうっかりすると飛んじゃって……でも、巧くいく方法を見つけたんだ。これからは安定して作れそうでね、この子は商品化第一号というわけさ。贅沢品でないと言ったら嘘になるけど――」
にこり、深い緑の眼がセドリックを映して笑う。店主の言葉は、迷っていた魔導師の背を押すように、その手を香油の瓶に導いた。
「ひとつ、連れて帰るかい。うちの”チェリー・パイ”を」
――脳裏に、銀の影が過る。
らしくなく、セドリックはその場で品の代金を払い、使う予定もない香油の瓶を握りしめて店を後にした。
*
衝動買いをするなんて、ほんとうに久しぶりだ。小さく首を傾げながら、セドリックは小瓶をポーチに落とし込んだ。研究棟の長い階段を上りながら、入れ替わりに部屋の鍵を引っ張り出す。金物と一緒にしておいて、あのきれいなガラスに傷でもついたらと思うと、そうせずにはいられなかった。
あれ、どこで嗅いだんだっけ。回廊を研究室へ向かいながら、香油の匂いに思いを馳せる。チェリー・パイ、そうは言ってもあんな香りをしたパイの記憶はない。ちらちらと脳裏を過るのは煉瓦の壁、ほこりっぽい道に曇天の空――そんなもの、条件がそろえばどこでだって見られる。セレスティアの街並みは、煉瓦の橙と漆喰の白亜で有名だ。それにやはり、曇った日にサクランボのパイを食べた覚えは、皆無。
「なーんだっけなぁ……」
ああ、思い出せない。なんでもよく覚えている相棒ならば、知っているだろうか。今度彼に訊いてみよう、きっと答えをくれるはずだから。研究室の鍵を開けながら、セドリックは小さく息をつく。
ゆらり、部屋の中で紅と黒が揺れた。予想外の人影に、セドリックは目を丸くする。噂をすればなんとやらか、会いに行こうと考えたばかりの相手が、机に寄りかかって佇んでいた。応接テーブルにティーセットがあるのは、時間を見計らって準備してくれたのだろうか。
「――よう。おかえり、セドリック」
「レスター」
早く訓練が終わったのだろうか、彼はいつもの制服姿で、湿った髪もしっかりと整えられている。近くに寄れば、ほんのりと石鹸の香りがした。終わってすぐに会いに来てくれるなんて、ちょっと嬉しい。こうして彼がセドリックを優先してくれることなんて、考えればかなり減った。
ああ、今日はいい日。ちょうど話題にもなるし、あの香りについても話をしてみよう。にこにことレスターの手を取れば、騎士は薄く微笑む。しかしアイスブルーの眼差しを正面に捉えた瞬間、セドリックは言いようのない寒気を腹の底に覚えた。
――笑って、いない。
「なあ、これなんだ」
手を勢いよく掴んで引かれ、セドリックは顔をしかめる。半ば無理矢理引き込まれた騎士の腕の中で、魔導師は鏡のように鮮明な自分の姿を見た。
ほんの一拍おいて、気づく。紛れなく、この前の休みにもらってきたスケッチだ。他言無用だ、誰にも見せてくれるな――そうアシュレイは言った。君だけのものだ、どうやら私のこれはあまりいいものではないらしいから。どこか不穏な彼の言葉が、まさかの現実になろうとしていた。
「な、にって……絵、だろ」
「おまえがモデルだな。え? 誰が描いた」
「……友達だよ、そりゃ」
「どの」
「そこまで言わなきゃいけない?」
冷たい青を見返して、セドリックは突っぱねた。誰にも見せてくれるな、そう友は言った。無理を言ってもらってきたようなものだ、それに報いて、約束は守られなければならない。
「……だいたい、なんでそこまで気にするんだよ。別にいいだろ、絵のモデルくらい」
「ふーん。こんなもん描かれてて、気にすんなって?」
ばさ、と机の上に投げ出されたのは、破りとられた二枚のページ。一枚めは見覚えがあった。ついこの前、レスターと喧嘩した日。バイオリンを弾きながら、君を見習わなければと彼が微笑んでくれた、あの夜の絵。窓辺に立ち尽くすセドリックは確かに心許なさそうで、確かにレスターからすれば気になる内容かもしれない。
もう一枚は――まだ目にしていなかったページだ――消えかけた街灯の下、濡れ鼠で佇むセドリックを描いたものだった。泣きはらした目許、身体にはりついたシャツ。石畳を濡らすのが霙だと、絵が鮮明なおかげではっきり判る。
(……あーくそ、しくった……)
内心でセドリックは舌打ちをする。一度すべてのページに目を通しておくのだった。研究室ならば不用意に触られることもあるまいと、何故たかをくくっていたのか。毎日いちまい眺めて明日の楽しみにしようなんて、余計なことを考えたがばかりに。こんな絵があると知っていたなら、もっと慎重に隠しておいたはず。
ぐるぐると渦を巻く思考の中、どうにか反駁をひねり出す。口にできたのは、子供じみた――そして論点のずれた一言だった。
「――勝手に、破くなんて!」
「この絵とどっちが問題だと思う」
絵に伸ばした手はあっけなく掴まれて、代わりにティーポットから湯気の立つ紅茶が紙にぶちまけられた。透明な紅に滲んでいく色鉛筆画を、セドリックは見ていることしかできない。ふりほどこうと思い切り腕を引いても、手首に食い込んだ指先は放してくれなかった。
「ちょ……!」
「誰だよ、こんなおまえを描いた奴は」
「誰だっていいだろ――やめろ、やめてよ、絵が……」
「ほーう。……なんだ、俺に対するあてつけか。おまえ、そんなにひねくれた奴だったか?」
「っ、そんなんじゃ――」
「なにがそんなんじゃねえんだよ」
にべもなく一言で打ち切って、レスターは荒っぽい手つきでポットを下ろした。空っぽのカップが跳ねて、ソーサーにぶつかる鋭い音。紅茶に滲んだ絵は、もうほぼ元の姿を留めていない。あんまりだ、こんなの。理不尽な扱いにセドリックは喉の奥で唸った。ほんの少しの恐れを、怒りが激流のように押し流していく。
「だいたい、なんで、あてつけしなきゃ、いけないのさ」
鼓動が速くなる。捕まれた手が、指先から冷えていく。身体が震え始めても、セドリックは頑としてはねつけた。――五年ぶりのまともな反撃だった。
「そっか。あてつけされるこころあたり、あるよなぁ」
「なんだと」
「あれだけ、おれ、いったのが、やっとわかってきたってわけ。おれ、レスターにいった。ほかのやつのとこいくの、やだって――おれが、おなじことしたって、おもって、おこってるんだろ」
ほんの僅か、相棒の力が緩む。その隙に大きく腕を振り抜けば、呆気なく手は離れた。セドリックと同じ怒りに、驚愕したような色を交えたアイスブルー。その眼差しに怯むことなく、感情にまかせてセドリックは恋人の胸倉を掴んだ。
「おれは、おまえだけなのに。おれには、おまえしか、いないのに。……わかんないのか? どうせわかんないんだ、わかんないんだろ!」
――なにもかも失った。父も、母も、幼なじみも、可愛がってくれた隣人たちも。帰るべき家どころか、里がまるごと戦火におちて、荒れた彼の地には墓標だけが立つ。敬愛する師は故郷とともに殉じて、残るのは目の前にいるひとり――狂おしいほど愛しいひとりだけ。懐かしいあの頃を、過ぎ去った日々の面影を映すのは。
「――そいつは、嘘っぱちだ」
応えは酷く冷たく、そして短かった。商談のとき、交渉のときよりもっと悪い。一切の感情を殺した、氷のような声。その響きは、容赦なく目の奥を熱くさせた。――泣くもんか。喉の奥がつんとして、吐きそうになるのを堪えながら、セドリックは大きく息をつく。
「なんだって」
「嘘だ。先に俺を必要としなくなったのは、おまえなんだから」
"どうせわかんないんだろ"。先刻投げつけた言葉が、そっくりそのままレスターの態度となって跳ね返ってくる。わかるわけがない、そう言ったのはセドリック自身だ。だがその事実はあまりにも受け入れがたくて、飲み込めなくて、こんなにも苦しい。
「おれが? いつ」
「もう、ずっと前から」
「ふざけんなよ」
何度となく繰り返した、このやりとり。毎回台詞の些末は違えど、その顛末は時を戻してやり直したようにそっくりだ。いやになる、いやになる。かっと頭に血がのぼって、セドリックは相手の胸を拳で叩いた。軽く眉をしかめるだけ、その反応の薄さまでもが腹立たしい。
「どうすりゃいい。おれはどうすればいいの。なにやったって、どうしたって、おまえはしらんかおだ」
「……………………」
「ほんとばかだ、ばかレスター、わからずや。おまえのためなら、おれ、なんでもするのに。どうしてわかんないんだ、なんでわかってくれないんだよ。どくでものんで、しねばいいのか」
力の限り相手を揺すぶって、セドリックは吐き出すように言葉を投げつけた。どうすればいいのか、わからない。もうわからなかった――幼馴染で相棒であった彼との仲が、今となってはもう恋人と形容するのも躊躇う関係。確かにそれはセドリックの所為かもしれなくて、そう思えばこそこうしてぶつかるのはつらくてたまらない。
哀しくて、苦しくて、消えてしまいたかった瞬間に、手を伸べてくれた彼。抱きしめて、愛して、俺のために生きていてくれと叫んだ彼。そんなレスターに、きっと寄りかかりすぎた、甘えすぎた。だから騎士は嫌気がさして、他で安らぎを求めるようになったのだろう。彼の怒りは当然で、それは彼の責任ではない。だからこそ、セドリックはなにも言わずに寂しさを押し殺してきた。もう今となっては、求めることもない。縛りつけることもやめ、研究や余暇で気を散らしている。誰よりも恋しい相手なのに、もう半年以上も肌を重ねていない――その前五年ほどは、ことあるごとに彼を乞うていたというのに。
「……死ぬ、死ぬか」
冷たかった彼の声が、かっと怒りを帯びる。身をかわす間もなく荒っぽく胸ぐらを掴み上げられて、セドリックは思わず呻いた。
「じゃあ一服呷ってみるか」
「う、ぐ」
「それっくらいの覚悟があるなら、いけんだろ。丁度いいもんがある」
乱暴に突き放され、セドリックは本棚に強く背を打ちつけた。強い衝撃に肺が軋み、無様に空気の塊を吐き出す。咳き込む魔導師に構わず、レスターは横倒しになっていたカップを取り上げると、ぬるくなった紅茶をなみなみと注いだ。取り出した小瓶から、なにやら数滴。先程の口ぶりを思うと、間違っても香り付けのブランデーなどではない。
「かっ食らってみればいい。苦しんでりゃ俺の気を引けるとでも思ってんなら」
「なに、を――これ、」
「おまえのいちばん嫌いな、あいつさ」
すっと、顔から熱が引いていく。レスターの言葉は、それが何であるかを気づかせるに充分だった。二回ほど、あれを口にして酷い目に遭ったことがある。一度は事故、二度目は合意の上だった――セドリックのためを思っての提案で、失敗に終わっても彼を恨むことはなかった。
だが、今回は違う。これは挑発だ。目の前の紅茶に注がれたものが、この身にどんな影響を及ぼすかレスターは知っている。その上で呷れと言うのだ――堕ちてみせろと、ひざまずいて乞えと。
「どうした。俺のためなら、なんだってするんだろ」
冷たくせせら笑う声に、胃のあたりがすうと冷えていく。糸に引かれるようにセドリックは立ち上がり、震える手でカップを取った。馬鹿げている――脳裏で、ひとかけら残った思考が叫ぶ。引き留めようとする、それをしてどうなるのだと、意味のないことだと訴える。そう、いっそこれをレスターに投げつけてやればいい、ふざけるなと糾弾すればいい、おまえは何を考えているんだと――
セドリックはカップを唇に押し当て、ひと思いにその中身を空にした。