Prologue: 12. Pure Snow

 毎度のことだが、この瞬間はあまりいい気がしない。
 
「――最後に、言い残すことは?」

 常套すぎる言葉、被疑者の首に輪がかけられ、その足下から床が抜ける。縄がびんと張る音、呻き声、顔をしかめた神父がため息をついて祈る――この現場に居合わせるのは数度目だが、何度経験したところで初回のような気がしてしまう。
 幾人も殺めたこの男を、最終的に死に追いやったのは自分だ。
 じくじくと熱い胃にその事実を突きつけられるようで、アシュレイは吐き気がした。

 雪のちらつく中、墓地への道を歩く。馬車の車輪が回る音、ひとの話し声、馬のいななき、吹きすさぶ北風、スモッグの臭い。なにも変わらない街が、どこか膜を張ったように遠く感じた。
 目的のそれは、敷地の片隅にあった。真新しい墓石の前にひざまずき、何を言ってもいいかもわからずもごもごと挨拶の言葉を口にする。他の者なら意地の悪い感想でも抱いたかもしれないが、きっとこの下に眠る人物は微笑んで出迎えてくれただろう。
 ――どこか友に似た、純朴そうなやさしい青年。

「……今日、事が済んだ。貴方の恨みも、少しは晴れただろうか」

 いや、彼のことだから、恨みというのは語弊があるかもしれない。治るよりも早く命を蝕んでいく傷に苦しみながら、青年が心配していたのは最後まで家族や友人のことばかりだった。
 的確に表現するならば、きっと無念が正しいだろう。年の頃はアシュレイとそう変わらないように見えた。きっと彼にはやり残したことも、思い残したこともたくさんあっただろうに。
 ひとつため息をついて、十字を切る。最後の被害者となった青年のために、決められた詞を呟いた。特に意味は無い。アシュレイにとって祈りの言葉は意味を持たない。だが、死の床についた青年の手にはすり切れたロザリオが握られていたから、きっとこうするのが彼にとっては正しいのだと、そう信じた。

「――ブライトン検事?」

 背後からかけられた声に、つむっていた目を開く。馴染みの事務官が、小さな花束を手にして佇んでいた。遠くで鐘の音、定時はとうに過ぎている。仕事を終えて、彼もまっすぐここへ来たらしい。

「ハート、君か」
「やっぱり、いらしてたんですね」
「……花」
「はい、この時期にさがすのは少し骨が折れましたけど。友人に花屋がいて、なんとか」

 そっと墓石に添えられた花は、季節のせいかやはりどことなく元気がない。しかしその色は寒々しい墓石を確かに彩って、アシュレイは手ぶらでやってきた自分を少しばかり恥じた。生きていたならきっと、被害者の青年は花を喜んだだろうに。

「――検事、大丈夫ですか」
「……ああ。少し、ぼんやりしていた」
「執行、立ち会われたんでしょう。顔色が……」
「私なら問題ない、大丈夫だ」

 許せないとばかり最高刑を求刑した身だ、それ以外に言えることなんてあるだろうか。あの事件が手元に回ってきたとき、被疑者の手にかかって五人が既に死んでいた。裁判の期間中に六人目が亡くなり、その六人目が遺した証言を武器にアシュレイは奴を糾弾したのだ。
 当然の結果だ。このために全力を尽くした。罪悪感に胃を痛める資格など、アシュレイにありはしない。
 
 失われたものは戻らない。ならばせめて、弔うのが筋だろう。アシュレイにはこのやり方しか出来なかった、ただそれだけのこと。

「……お昼、召し上がりましたか?」
「どうだったかな。覚えていない」

 心配性な事務官に、苦笑で応える。きっと彼も人種としては友人や被害者の青年と同類だろう。お人好しで、他人を気にかけすぎる。有難いが、いつかそれが彼ら自身を傷つけるのではないかと、気が気ではない。
 口にした嘘はあっさりと見破られ、事務官は軽く顔をしかめる。“覚えていない”、そんなはずがないと彼は確信しているのだ。まったく、どれだけ過信されているやら。いくら上司であっても、覚えていないことのひとつやふたつあったところで良いではないか。

「せめて夕食を。ご一緒しても?」
「食べる気がしなくてね。ありがたいが、今日は止そうか――ここは頼んだ、ハート。また来週、オフィスで会おう」

 墓石の前を事務官に譲り、踵を返す。彼ならアシュレイより余程うまく、適切な言葉を青年にかけてくれるだろう。
 ちらり、白い欠片が空から舞う。曇天のグレイに雪の粒は寒々しく影を落として、アシュレイはマフラーに鼻先をうずめると家路を急いだ。

*   *   *

 ――三度目に、英国へ飛び出したとき。
 耐えきれなくて、つらくて、苦しくて、逃げ出すように壁を抜ければ、闇に包まれた霧の都はきんと冷え切っていた。故郷の穏やかな気候とは異なる空気、鈍色の空からちらつく白――氷の滴、それさえ相棒を想起させるようで、逃げたくて、ふらりと歩き出す。
 熱を失っていく身体とは裏腹に、目許ばかり熱くなって、視界が潤み歪んでいく。ああ、このまま消えてなくなってしまえたら。いっそ六年前、刃を自分に向けたあのときに終われていたならよかった。最悪のタイミングで居合わせた相棒の視線に躊躇わず、そのまま短剣を振り下ろしていれば、きっとこんな思いはしなくて済んだのに――だがあのときの激情を失ったこの身は、本能的に死を畏れる。心ばかりが凍りついて、ひたすらおしまいにしたいと願う、ただそれだけ。
 ずるり、ずるり、気力もなくただ足を動かして、いつのまにかたどり着いたのは、もう見慣れた煉瓦の通りだった。七段の階段を従えた扉が、寂れた金のノッカーを並べて陰鬱に立ち並ぶ。その一番端、特になんの変哲もない漆黒の戸の向こうは、月光の彼が住まうフラットだ。何故ここに来てしまったのか、彼と会う気なんて、今日はないのに。ふらりと踵を返し、立ち去りかけて――向こうから歩いてくる姿に、足が止まる。
 降り注ぐ白に紛れる淡色の外套。月色の髪が、鈍色の街並みに楚々として光る。色を帯びぬ白磁の肌は、この寒さでもまっさらで。まるで冬そのもののような佇まい、ただ、その蒼の眼だけがうつくしく、ひどく鮮やかだった。

 十九度目に、彼と逢ったとき。
 その光景は、あの雨夜とよく似ていた。薄いシャツ一枚きりを纏う強ばった肩、力なく両脇におろされた腕。いっそ震えることさえ放棄したらしい身体を持て余すように、足を引きずってようやく歩きながら、彼はアシュレイの暮らす通りにいた。
 頼ってきたのか、それともふらりと行き着いたのかは定かでないが、おそらく後者だろう。ひとに会いに来る服装ではない。それを弁えないほど彼は常識知らずではないし、頓着しないほどずぼらでもないと知っている。それを言えばこの天気に、斯様な服装で出歩くこと自体そもそも論外だろうが――また・・なにかあったのだ、初対面のときを思い返して、思わず眉を寄せた。まったく、なんて日だろうか。死刑執行に立ち会い、友と似たようなお人好しの墓参りを済ませて帰ってきたら、よもや玄関先にその友本人が泣きながら佇んでいるとは。
 僥倖なのは、アシュレイがこうしてまた居合わせたことである。初雪が降る今夜は、急激に冷え込んでいくだろう。ロンドンの街中でも、あの格好では行き倒れたら凍死しかねない。――今日はもう既にひとり見送ったばかりだ。ましてや目の前の彼は友人、間違っても放っておけるはずなどなかった。
 引き返そうとしたのか、彼はふらりと踵を返す。丁度振り返るようなかたちで彼は顔を上げて、濡れた円い眼と視線がかち合った。力なく伏せられた葉の色に、いつもの輝きはない。やはりその姿は、あの晩の彼に酷似していた。
 一歩、二歩、距離を詰める。つめたい空気を吸い込んで、なにを口にしていいものか、内心だけで思案した。
 
 
 「――泣いて、いるのか」

 たっぷり数秒の沈黙の後、アシュレイがようやく口を開いた。常ならば定規で測ったように礼儀を尽くす彼の、唐突すぎる発言。痺れた思考ではそれを理解しきれず、セドリックはただ立ち尽くした。何故、今、この時間に、彼がここに。今度こそ気がふれたのか、機能を放棄したこの頭が、縋りたいひとの夢でも見せているのか。雪が生み出した幻のような検事は、蒼の眼を数度瞬かせ、囁くように言葉を紡ぐ。

「……そんな顔で泣くきみを見るのは、あのとき以来だ」

 静かに近寄る彼をぼんやりと目で追うと、そっと腕をとられる。ああ、こうして彼に触れられるのは二度目だ――整った指先、思いの外しっかりした掌の感触。手袋越しでは体温こそ伝わらないが、その手の確かな重さは、検事が確固たる現実の存在であると主張する。それほど強く力をこめられているわけでもないのに、一切の抵抗が封じられる――その発想さえも遠く拭い去られる。ただひとつ違うのは、それが慣れきった諦めではなく、安堵に似た感情によってもたらされたというだけ。
 鮮やかな蒼が、ゆるりと銀のまつげに隠れる。滑らかな声が、ひとことだけで告げるのは、あまりにあたたかな命令。

「あがっていきなさい」

 ――いっしょにきなさい。脳裏を過る、雨夜の声。ああ、彼だ、彼なのだ、見ず知らずの自分に手を伸べて、あたたかな暖炉の前に一晩かくまってくれた、闇夜を照らす月のようなひと。

「……ぶらいとん……」

 掠れた声で、回らない呂律で名を呼べば、硝子レンズの奥でほんの僅か、夜空色が柔らかく細められた。

*   *   *

 あの夜と、まったく同じ。湯気の立つ風呂と借り物の服、暖炉の前で供された甘い紅茶。ただひとつ違ったのは、一緒に置かれた簡単な食事。どうやらアシュレイも、まだ夕食を食べていなかったらしい。
 冷えているセドリックを気遣ってか、アシュレイはわざわざ台所に立ち、簡単なスープまで拵えてくれた。豆の缶詰をのばし、味を調えただけのもののようだ。しかしそれをテーブルに置いたアシュレイの眼差しはやさしくて、セドリックはなんだかそれだけで腹がふくれるような錯覚を起こした。
 
「ブライトン……」
「ほら、食べたまえ。思うほど風呂で体温は上がらん。見たところ、疲れているようだから」

 冷たいハムを挟んだパン、味の薄いスープ。気を遣って、アシュレイは塩と胡椒もテーブルに持ってきてくれた。実のところあまり食欲がなくて、セドリックは申し訳なくなりながらスプーンをとる。のろのろと豆を口に入れ――不意に溢れた涙に、静かな嗚咽を漏らした。
 
「――う、う」
「……サージェント?」
「ううぅ……」

 肩をぽんぽんと叩かれながら泣いて、それでもセドリックは食べた。遠征のときに、野営地で口にするものに近い簡素な食事。日頃なら好まないはずのそんな食べ物が、不思議と力を与えてくれるようだった。
 さんざん泣きながら皿を空にして、セドリックは深く息をつく。キャンブリックティーを差し出してくれたアシュレイの皿は、まだ食べ物で満たされたままだ。
 
「…………ごめん」
「いい。よく食べた、サージェント」

 子供をあやすように背を撫でられ、セドリックは鼻をすすって涙を拭った。目の前で、ようやくアシュレイはサンドイッチに手をつける。上品に、ひとくち、またひとくち。ゆっくりと、だが着実に、夕食は彼の胃に収まっていく。こくんと飲み込む音、小さく動く彼の喉。
 
「――なにが、あった」

 ぼんやりと眺めていた光景の向こうから、銀の声が降ってくる。視線を上げれば真剣な眼差しの彼がいて、セドリックは言葉につまった。
 
「…………なにも、」
「ない、というのはまた説得力のない文句だな」
「………………あった、けど」

 気遣うように見つめる視線から、逃げたくなる。言えない、言えるわけがない。誰よりも高潔な彼は、清廉な彼は、きっと斯様にねじ曲がった関係などしらないだろう。きっと受け入れてもらえないに違いない。軽蔑されたくない、失望されたくない。新たな感情に涙がにじみ、空になったスープ皿に滴っていく。
 
「ああ、ああ、泣くな。それほどまでにつらいなら、言わなくても構わない」

 食べる手を止めて、アシュレイはまたセドリックの肩をぽんぽんと叩く。宥めてくれるやさしい手は余計に涙を誘って、セドリックは情けなくうつむいた。ああ、弱い、やはり弱い。強くなどなれはしない、セドリック・サージェントは、独りでは立っていられない。
 
「…………、ごめん……」
「私こそ、いらないことを訊いた。すまない」

 申し訳なさそうに視線を逸らして、アシュレイは口をつぐむ。気まずい沈黙が降りて、セドリックはしゃくりあげた。なにをやっているんだろう、いったい。彼にこんな顔をさせたいわけではないのに。自分が泣いているから彼を困らせていると、わかっているのに溢れる滴は止まらない。情けないばかりだ。
 
「――私に、出来ることがあればいいのだがな」

 そっと、柔らかい布が頬に押しつけられる。滑らかな感触は絹だろうか。だめにしてしまうと身を引けば、アシュレイは少しすまなそうな顔をした。それでも目許にまた布の感触は追ってきて、セドリックはようやくそれがハンカチだと気がついた。
 
「ブライトン……?」
「いや、いいんだ。――帰るには遅いな。泊まっていくか」
「……いいの」
「今更だな。前にもこんなことがあったろう」

 軽く目を細められて、セドリックは言葉に詰まる。あのときは今夜よりもひどかった、かもしれない。季節こそ今よりあたたかい時期だったが、服どころか頭のてっぺんから靴の中まで濡れ鼠だった。本当によくあのとき泊めてくれたものだと思う。――いや、それとも追い出すには忍びないほどに、ひどい格好をしていたのかもしれない。しかもその原因は、今日とほぼ同じときた。まったく進歩がない。
 ついひとつため息をつけば、察したのか検事が小さく苦笑する。涙の染みこんだハンカチをそっと手に押しつけられて、セドリックは無意識に角の刺繍を指先でなぞった。席を立ち、皿を片付けながらアシュレイは肩越しに振り返る。
 
「悪天候の夜にうろつくのが、趣味なわけでもあるまいに」
「……そう言う、ブライトンは?」
「前回は会食。今夜は、……仕事だ」
「……こんなに、おそくまで」
「少々長引いてしまってな」

 時計の針は、いつの間にか十時過ぎを指している。英国では遅くまで働くのが普通なのだろうか。それとも単に彼が激務なだけだろうか。今更のように気づけば、アシュレイも顔色はあまり良くない。
 
「もしかして、ブライトンも具合わるい……?」
「――そんなことは、ないぞ」
「また説得力の無い文句だな」
「む。ひとがわるいな、君も」

 彼に言われた言葉をそっくりそのまま返せば、呆れたようにアシュレイは笑った。紅茶のおかわりを目の前に置かれ、セドリックは友人を見上げる。その口許には、確かに先程はなかった笑みが浮かんでいた。
 
「強いて言うなら、体調よりも機嫌が悪かった。――だが気にするな、サージェント。今日は私も、ひとりでいるのはいやだと思っていたところなのだよ」
「……ほんとに?」
「ああ。まったくもって予定外だが、歓迎せざるを得ないな」

 淡く微笑んだ彼に肩を押されて、セドリックは立ち上がる。あたたかい暖炉の前に連れて行かれながら、今夜はじめて心から安堵した。

 いいよ、ソファで。やめておけ、凍えるぞ。そんな押し問答のあと、結局セドリックはベッドで――友人のすぐ隣で眠ることになった。セドリックとしては照れるし、彼本人がそう言いながらも居心地悪そうなので遠慮したかったが、家主がそう言い張るのだから仕方がない。なにより、寒いから風邪を引くからと小一時間言い聞かされれば、あらゆる意味で断る気も失せた。
 ――とは言え、あっさり言いくるめられてしまったような気もする。このように意志薄弱だから、相棒ともおかしなことになるんじゃないだろうか。眠りが訪れるのを待つ間、今更のようにそう自嘲するも、とっくに身体はベッドに横たわっている。この期に及んでおかしな遠慮をするわけにもいかず、ただ暗い天井を見つめ続けるばかりだ。
 
(うう……さむ)

 隣で眠るアシュレイの肩に、毛布が持ち上げられている。隙間から滑り込む冷気が容赦なく体温を奪うようで、セドリックは身震いした。やはりこの街の住人だけあって、検事は正しかった。セレスティアとは異なり、イングランドの寒さは染み通るようだ。もし前回のようにソファで眠ろうとしたならば、暖炉の火があってなお凍えていたに違いない。
 ベッドに入り程なくして沈黙した友は、隣で寝息をたてている。英国の気候に慣れている彼には、この寒さも特に苦になる程ではないらしい。まったくこちらのことを気にする様子もなく、彼は静かに眠っていて、つい不思議に思ってしまった。本当に他意などないのだ、彼はただ友に寝床を提供しただけで、当然それ以上の意図などなく――否、それもそうか、寧ろこれが自然なのだ。唯一ひとと眠るのが、相棒とそんなこと・・・・・になる夜ばかりだから、うっかりと妙な印象が植わっているらしい。
 
(……やーなの。ブライトンはそんな奴じゃないし、俺だってそうほいほいひとと寝る・・わけじゃない)

 やはり、意識しすぎだ。うんざりしてセドリックはかぶりを振る。よく考えれば遠征で同僚と雑魚寝などよくある話なのに、どうしてこんなに気になるのだか。だいたい、まがりなりにも相手がいるのに、他の者とおかしなことになるような図太さもセドリックにはない。妙に考えてしまうのは、きっと夕方レスターの挑発で呷ったなにか・・・のせいだ。もうその効果は切れているが、考えたくない――ここは英国、相棒はいない。不安がることはなにもないのだ。
 気がつけば、レスターの隣で横たわるよりも気持ちは穏やかだった。くるまる上掛けも、身を受け止める寝台も、ほんのり甘いリネンの香りも、ゆるりゆるりと意識を眠りへ誘うようだ。ここは故郷でなく馴染みのない異界で、隣に眠るのは相棒でなく友で、おまけに部屋は慣れない寒さに冷え切っているというのに。
 とろとろと微睡んでいると、隣の気配が小さく身じろぐ。肩と肩の間から入る隙間風が不快なのか、アシュレイは小さく寝返りをうってその距離を縮めた。触れ合う肩と肩、寝間着越しに伝わる温もり。自分よりも少し低めの、だが確かなひとの体温に、セドリックが覚えたのは安らぎだった。
 
(……きもちいいな)

 幼い頃に母の傍で眠ったような、そんな感覚。親扱いなどしては友人が心外に思うだろうが、この心地よさは限りなくそれに似ているような気がした。僅かな温もりがどうしようもなく恋しい。もっと近づきたくて、ぼんやりと隣を見た。
 寒かったから、無意識につい。そんな理由なら、アシュレイは許してくれるだろうか。ほんのひとつ息をついて、しようがないなきみは、と言葉だけ辛辣に――しかしいっそ親愛の情らしき色さえ、その蒼の眼に湛えて。
 そう、寒いから、寒いからなんだ。ブライトンがいなかったら、朝までに俺、凍えちまうよ。夢うつつのうちにそんな言い訳を己にして、セドリックは肩を借りてうたた寝をするように、友に近く身を寄せた。彼の纏うシャツ越し、ささやかに触れた肩から頬から体温が伝わって、あの雨夜と同じ甘やかな香りが淡く鼻をくすぐる。数分もかからずに、疲れ切った魔導師は穏やかな眠りへと誘われた。

*   *   *

 あたたかい。
 その心地よさにしばしうつらうつらして――おもむろに目を開けた。慣れた天井、慣れたベッド。ただひとつ常と違うのは、隣にぴったりとくっついて、友人が寝こけていたことだった。
 甘えたがりの子供のように寄り添って、セドリックはすやすやと寝息をたてている。その目許は、昨夜泣いた名残に少し腫れていた。笑顔の印象が強い彼に赤くなった目許は不釣り合いで、アシュレイは寝ぼけ眼のまま指先を伸ばした。
 
(いや。なにをしているんだいったい)

 触れる寸前で気がついて、手を引っ込める。時計に目を細めてみれば、ぼんやりと見えた時刻はまだ早朝で、起きてしまうには惜しかった。だいいち、これほどくっついた状態で動き出せば、セドリックまで目を覚ましてしまうだろう。それは少し可哀想に思えた。
 
「……まったく、きみは」

 アシュレイにここまでさせるのは、彼くらいだろう。仕方がないとは言え、寝床を誰かに貸す日が来るとは予想外だった。近いうちに妻となる女性と寝台を共にするまで、こうして誰かと眠ることなどないのだろうと思って疑わなかった。
 
(存外、わるくないものだな……)

 隣で寝ている友の体温に、兄と眠った幼い日の夜を思い出す。どんなに窓の外が嵐に荒れ狂っていても、毛布の中に同じ体温があったから安心していられた。そんな心地を味わうことは、もう無いものだと諦めきっていたのに。
 
「――しようがないやつだ、ほんとうに」

 子供のようにくっついてくるくせに、抱きつくことはしない。あんなに泣いていたのに、何も言おうとはしない。そんな友に、何ももたない自分を見たなんてことは断じて無い。勝手な想像だが、彼はひとに囲まれて笑っているのが似合う男である。アシュレイのように、もう手に入らない温もりを恋しがって目を覚ますようなことはない、ないのだ。
 セドリックの柔らかい髪が頬をくすぐる。そのふわふわとした胡桃色をぼんやり眺めながら、アシュレイはうとうとと眠りに落ちた。記憶にある限り、はじめての二度寝だった。

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