大丈夫でないと言ったところで、どうにもならないだろう。かつてのアシュレイであれば、そんな言葉を投げつけていたかもしれない。あなたを不安にさせるくらいなら黙ると、それが自分のやり方だと。だが、かえってそれが彼を傷つけると、いつからか思い知らされたから、もうその手段は執れない。まだ手探りもいいところだが、どうにか助けを求める方法は覚えた。いっそ己より酷い顔をしていそうな恋人の袖を引き、くちづけをねだる。
「……セド、キスして」
「キス……?」
「ん、キス。それで、だいじょうぶ」
大丈夫、そう言ったはずなのに、この声は説得力なく震えて、恋人の表情はさらに気遣わしげになるばかり。ああ、僕はあなたを安心させることさえできないのか。苦い思いに唇を噛めば、そっと彼の手がおとがいを掬い上げて、あやすように親指で口許をなぞられる。
「……本当に?」
「ああ、本当だ。……明日になれば――明日になれば、きっと忘れるから」
「忘れる、って……忘れられるの、アッシュ」
質問の形を取ってはいるが、それは婉曲な指摘だった。無理だろう、何も忘れられないって、俺知ってるよ――そう言外に伝える彼の言い草に、ついため息をこぼす。彼は正しい、忘れられるのならば、毎度毎度このように苦労などしていないのだ。
嘆息をどう取ったのか、恋人はそっと顔を近づけ、こつんと額をくっつけてくる。ふわり、柔らかな毛先が自分の髪に触れて、滑らかに滑る感触。
「……アッシュ」
セドリックの声は不安げで、それさえ胸を締めつける。本音を言えば気になるのだろう、自分がいないとはどんな夢だと、そう問いただしたくてたまらないのだろう。それでも、やさしい恋人はそれをせず、ただ気遣う言葉だけを紡ぐのだ――この呪われた頭までひっくるめて、愛おしく受け入れてくれているからこそ。ああ、わらって、後生だから、僕のことでそんなかおをしないでくれ。あなたの笑顔をずっと見ていたいと思うのに、たまたま夢見が悪かったうえあなたまで哀しませるなんて、それこそ悪夢だ。
どうしていいかわからず、震える手でぎゅうと彼に縋りつく。宥めてほしい、助けてほしい、だがなによりも、彼の笑顔を陰らせたことが、つらくて。
「……忘れる。忘れるよ、あなたがいれば。忘れられる――わすれ、させて」
いつだかセドリックにされた願い事を、知らず知らず口にすれば、恋人はくしゃりと顔を歪ませて、無言で抱きしめる力を強めた。あたたかい腕の中、その心音が聴こえるほど近く寄り添って、やさしく髪を梳く指先を感じて、ようやく震えが落ち着いていく。とん、とん、と寝かしつけるように、そっと背中を叩く掌、静かに旋律を紡ぐ彼の甘い声――ああ、"Clytie"、あの朝バイオリンにうたわせた、ふたりだけの永久カノンだ。彼は言ってくれた、おまえはクリティのようにはならなかったんだな、と。これからもそうなることはないと言葉なく示して、あたたかく抱きしめて――今も、こうして。
「――セド」
ぽつりと呼べば、歌は止まないままに、新緑の瞳だけがすいと視線を合わせてくる。髪を撫でていた手がするりと降りて、やわらかな仕草で頬をなぞった。たまらずその指先を握りしめて、駄々をこねるように訴える。
「……、さむい……」
旋律が途切れ、余韻だけ残して消えていく。何も言わず哀しげに眉を下げて、キスで唇を塞ぐと、セドリックはふたりを隔てる隙間をありったけ埋めるように強く抱きしめてくれた。予備の毛布はベッドのフットボードに引っかかったままだ、だがそんなものでこのさむさは埋められないと知っているから、それを手許に引き寄せてかぶろうなんて、そんな無駄なことは端からするまい。必要なのは彼だ、彼のぬくもりだけが、あのつめたい蒼の部屋を追い払ってくれる。
「アッシュ。アッシュ……俺、いるよ。ここにいるよ、いつまでだってそばにいる」
「……ん」
「アッシュは俺のはんぶんだもん。だいじょうぶ、ずっと一緒にいられるよ」
やさしく唇をついばまれる、その合間に彼が紡ぐ睦言に応え、ゆるりと一度頷いた。かつて囚われた鳥籠は遠く消え去って、いま世界の輪郭を象るのは愛しい彼、ただひとり。どこまでも高く飛びたがる不死鳥が、その翼を貸してくれるなら、見渡す光景がどれほど果てしなくても、きっと手を伸ばしていける。こうして抱きしめて、キスをして、遠く過去から連れ出してくれる彼がいるなら。
ほう、と安堵の息をついてセドリックの胸元に頬を寄せれば、途切れていた歌がまたゆるりと流れだした。彼の身体に響く豊かな音色を、愛おしく耳を押し当てて聴きながら、アシュレイはようやく瞼をおろす。もうきっと、悪い夢は見ない――ほんのひとつぶまなじりから滑り落ちた雫だけが、唯一の置き土産だった。
恋人のシャツに吸い込まれた涙は、痕跡のひとつさえ残さず消える。あれだけ居座っていた陰気な蒼い部屋は彼方へ追いやられ、簡素な白亜の寝室に取って代わられた。瞑目した暗がりの中、静かなテノールの紡ぐ旋律が、瞼の裏で鮮やかな新緑と胡桃色の像を描く――ようやく訪れそうな眠りにうとうとと揺蕩いながら、数時間ぶりに浮かべた笑みに、唇が弧を描くのを遠く自覚した。
あたたかな恋人の腕に抱かれ、安心しきって意識を手放す。だいじょうぶ、もう大丈夫。アシュレイ・ブライトンは正しく、セドリック・サージェントの許に在るのだ。
真夜中に、ぽつり
(いとしいひと、僕にこころをくれたあなた)
(願わくは孤独のかなしみなど、けして僕におしえないで)