「毎度のことだけど、その格好どうにかしてくれよ」
お茶を出すなり、アルヴィスは毎回恒例と化している小言を述べる。ティーカップから立ち昇るベルガモットの香の向こう、フランチェスカは苛立った体で露骨に顔をしかめた。
「なんでよ。輪っか入ったドレスで犯人確保に当たれっていうの」
「……まあ、可能なら」
アルヴィスが頷いて、彼女は更に柳眉を釣り上げる。黒髪に映える金の瞳が、睨むように細められた。静かな迫力に、マイルズは我知らず姿勢を正すが、フランチェスカの弟たる探偵は涼しい顔である。怖気づく様子もなく、さらに重ねて言葉を続ける始末だ。
「フランなら楽勝だろ」
「あんた私をなんだと思ってるの、超人? あんなの着て回し蹴りなんか出来る程のスーパーウーマンじゃなくてよ、あんたのお姉様は」
「回し蹴りなんてするのかよ……」
「そりゃするわよ。脚の力は腕の三倍なんだから」
「そこじゃない」
ふんす、と鼻息も荒く宣言する姉に、アルヴィスは渋面を作る。
「大体、警官なんかやってるのが、そもそも……」
「うるさいわね」
「父様が泣くぞ」
「うるさい、ジェレミー・エベレット・アルヴィス・ブラック」
クッションを振りかぶりながら、ぴしゃりとフランチェスカが言い捨てる。貝のように口をつぐむアルヴィスの横で、マイルズは小さく肩をすくめた。
毎度毎度繰り返すこの会話は、一回たりとも違う終わり方をした例がない。なにしろ並の男を圧倒する体術の使い手である彼女だ。それに見合う気の強さと行動力に、弟であるアルヴィスと、その友人のマイルズでは、到底敵うはずもない。
「そんなだから嫁き遅れるんだ……」
うんざりと、口内だけでアルヴィスが呟く。しかしそれを耳聡く聞きつけて、今度こそフランチェスカは弟にクッションを投げつけた。
「おだまり。人口の半分を家の中に閉じ込めておこうなんて、あんたら男の発想がそもそもおかしい」
「ま、まあまあ」
彼女の低く唸る声に、マイルズは思わず割って入る。職場の紅一点だからなのか、どうも警部補はこの手の話題に過敏だ。下手に煽ったところでどうにか出来ることでもなく、これ以上の議論はただ不毛である。
「ところで、なにか弟さんに御用があっていらしたんじゃないっすっけ?」
プライドを軒並みへし折られる前に、訪問の目的について言及してみる。ああそうだったわ、とフランチェスカが膝を叩いて、女性の女性による女性のための社会進出話はそこで打ち切られた。
「ちょっと捜査が行き詰まってるのよ。このまま迷宮入りなんてさせたらメンツに関わるから、ちょっと手助けなさい」
不機嫌そうな顔で、フランチェスカは弟にファイルを寄越す。本当は自分の力で解決したかったのだと、そのぞんざいな仕草が雄弁に語っていた。
ファイルを開きながら、当のアルヴィスは小さく肩を竦める。またか、と言わんばかりだ。
「ヤードの期待の星がそう言うなら、かなりの難事件なんだろうな」
「素直に非難の的とおっしゃい。本当にかわいくないわね」
「二十三歳にもなってまだ可愛らしいような弟が欲しかったか?」
「……それはそれで不気味ね」
しばらく真顔で弟を眺め、フランチェスカは苦く目を細める。疲れたようにやれやれと肩をすくめる姉を他所に、アルヴィスは開いた捜査資料に目を落とした。彼の薄い肩越しに、マイルズもファイルを覗き込む。
「亡くなったのは国立研究所の研究員、ニコラス・バトラー博士。病理学の専門で、破傷風を扱っていたって」
「ふーん……おととい亡くなってるのか」
「――あれ?」
ふむふむと資料に目を通していると、気になる記述に突き当たる。怪訝に思って、マイルズは思わず口を挟んだ。
「死因、破傷風なんすか?」
「そうなのよ」
苦い顔で、フランチェスカは嘆息する。同じ個所を読んで、探偵も片眉を上げた。
「破傷風の研究をしていた博士が破傷風で死んだのか?」
「ええ」
「じゃあ、単に感染しちゃって死んだんじゃ……?」
首を傾げてマイルズが問うと、フランチェスカは緩くかぶりを振る。
「外傷から感染するってわかってる病気だから、被害者は気を遣ってたそうよ」
「へえ」
興味をひかれた様子で、アルヴィスが椅子に座り直す。研究中の事故でないとするならば、これは単なる間の悪い偶然か。しかし、それならばフランチェスカがわざわざ弟の事務所を訪れる意味も、斯様な話を難しい顔でする意味もない。
「殺人か――誰かが博士に、わざと菌を投与したと?」
「その線で見てる」
「とは言え、普通なら本人の不注意で済ませるはずだ。なんの理由もなしに殺人の線で進めるとは思えないな。根拠は?」
弟の鋭い指摘に、フランチェスカは重々しく息をつく。次いで一言、低い声で口にされた答えは、ふたりの度肝を抜いた。
「タレコミ」
「タレコミ?」
露骨に眉をひそめて、アルヴィスは肘掛け椅子から身を起こした。一方のマイルズはいきなり飛躍する話についていくのがやっとだ。口を挟もうとするも言葉が出ず、結局相棒に反駁を託すことになる。間髪入れず追及するアルヴィスの口調は、相変わらずの切れ味だ。
「馬鹿言うなよ。もしそうなら、そんなの犯人はタレコミの主に決まってる」
「そんなの匿名に決まってるでしょ、馬鹿ね」
「手紙か、電文か――とりあえず口頭ではないだろう。記録が残ったはずだ」
「巧妙に経路がもみ消されてるのよ。ナメられたもんだわ」
機嫌悪く舌打ちをして、フランチェスカはファイルを睨みつける。うんざりと目を眇めた弟にも、その怒りの矛先は向いた。
「無能とでも言いたそうな顔するんじゃないわよ」
「俺は何も言ってない」
向こうずねを蹴り上げようとするヒールを避けて、アルヴィスはマイルズに目配せをした。いやこっち見るな、とばかり医師は目を逸らす。姉弟喧嘩に巻き込まれるのはごめんだ。
応じない相棒から視線を逸らして、アルヴィスはまたファイルに目を落とした。――殺人の線で再捜査、と書類の一枚目に赤い字が躍っている。
「タレコミの信憑性は?」
「あると上は見てる」
「匿名なのに?」
「そんなこと、わたしに訊かないでよ。――ったく、こっちは動かなきゃならないし、検視官どもは破傷風と腐乱死体を嫌がって再調査テキトーにするし、ふざけんじゃないわよちくしょー」
「随分口汚いよな。うがいでもしたらどうだ」
「うるっさいわね!」
威嚇するように唸るフランチェスカを相手にしても、アルヴィスは動じない。一方で、検視官達の言い分も解るマイルズは苦笑するしかなかった。
破傷風で死んだ疑いのある遺体を、そう何度も解剖したがるはずもない。うっかりすれば自分だって感染、酷ければあの世行きの片道切符を無事確保だ。おまけに時間が経って、腐敗も始まっているときている。いくら仕事といったって、避けられるものならば喜んで避ける――それも全力で。
「……しーっ。言うなよ……わかるけど」
横からそっと脇腹をつつかれて、マイルズは顔をひきつらせた。ひとまずわかってるよと呟き返しておく。下手なことを言っても、きっと火に油、フライパンから火の中への典型だ。どうせ口にするなら建設的なことでなければならない――そもそもアルヴィスはこの事件を捜査することになるようだし。
「じゃあ、オレも行きましょうか。検視はちょっと専門からズレるけど」
「えっ」
「本当に、マイルズ」
乗りかかった船とばかりマイルズが問えば、アルヴィスは絶句し、フランチェスカは目を輝かせた。本当に人手不足なのだろうなあと、マイルズは内心だけで彼女に同情する。否、正確には彼女を信じてついてくる輩が足りないのだろう。とかくこの社会は女性に厳しいのだ。医師を天職と自称する身としては、男に生まれていて心底よかったと思うばかりである。
「いいっすよ。どうせ弟さん駆り出すならオレも連れてかれるだろうし。オマケで」
「やった! マイルズ、貴方って最高」
歓声をあげて、フランチェスカは全力で拳など握りしめている。この程度のことで、すっかりお祝いムードだ。本当に仕事では不遇らしい。
「……おい。本当に行くのか、検視」
あちら立てればこちらが立たぬか。指先でつついてやりたくなるほどの皺を眉間に刻んだ相棒に、マイルズは苦笑する。その顔は喜色満面の姉君とはいっそ正反対だ。
「何さ、そのしかめっ面。ダメか?」
「いや、俺に止める権利があるわけじゃないが……死因、破傷風だろう」
「だいじょーぶだって。どうせだいたいの所見は出てるだろうし、直接触るまでもないだろうさ」
「……手荒れ持ちだし、おまえ」
「そりゃそうだけど」
「それに、刃物を使うだろ。万にひとつがあったらどうする」
そう言われると怖い。アルヴィスが小声で発した言葉に、医師は反駁の言葉を失う。刃がうっかり手に触れたら、そしてそれが使用済みであったなら――。
……いやいや、どんなヘタクソならそんな異常事態になるんだ。頭を振って、マイルズはひとまず失敬な探偵を指先で小突いておいた。なにしろ外科の実習はばっちり修了している。おまけにアルヴィス自身の手術にさえ一度立ち会った身なのだ。斯様なヘマなどしてたまるものか。そのような調子では、医師など務まらない。
「たまーにほんっとヤなこと言うよな、おまえ」
「可能性を述べたまでだ。言っておくが腕前の話はしてないぞ」
「ちょっとー。せっかくの検視要員をビビらせんのやめてもらえるかしら。マイルズが怖気づいたら、あんたのせいだからねっ」
テーブルの向こうから、フランチェスカがおかしなブーイングを投げてくる。心配されすぎるのも複雑だが、危険が伴うことをやれやれと唆されるのもまた微妙な話だ。ついマイルズが唇をとがらせると、隣で探偵も苦情を述べる。
「そっちこそ、弟の相棒つかまえて何を。だいたい善良な市民に検視なんかさせる時点で間違いだな」
「やあねー、プロフェッショナルの助言を求めてるだけでしょー。それにわたしは強制してないわよ」
ねっ、とウインクが飛んでくる。そんな仕草は彼らの母君にそっくりで、マイルズはひきつった唇から乾いた笑いを洩らした。この類の笑顔には、勝てた例がない。そもそも言い出したのは自分であるし、今更それを取り下げる気もなかった。
「もー、ヘンなとこで小競り合いするの、やめてくださいよ。行きます、行きますって」
「行くのか」
「おまえも来るだろ?」
カップを空にしつつ問えば、アルヴィスは露骨にため息をつく。残りの紅を茶器の中でくるくると回し、彼は姉に恨みがましい視線を向けた。
「あまりこき使うなよ、貸しひとつだからな」
「マイルズに借りひとつでしょ、なんであんたが文句言うのよ。――もういい? 見た? 一応これ機密だから、ホイホイ喋ったりしないでよね。宜しく」
弟の言い分を鼻で笑うと、フランチェスカはアルヴィスのめくっていた資料を取り上げる。ちょうど最終頁を眺めていた探偵は、やれやれと肩をすくめてこれ見よがしに深いため息をついた。
「ひとが見てるところに……」
「あんたなら問題ないでしょ。今更甘ったれたこと言わないの、二十三にもなる男が」
「そこ、年は関係ない。――今から行っていいのか?」
「こうしている間にも遺体は腐りおちて証拠は潰えるの。ああ無情」
「ならとっととアポ取っといてくれ」
うんざりとアルヴィスが天井を仰ぐのを後目に、警部補は芝居がかった仕草で席を立つ。そして威勢よく紅茶を飲み干すと、じゃ、と上着の裾を翻して退室した。嵐が去ったように、オフィスは静まり返る――女三人寄ればどうとやらとは言うが、彼女は楽々とひとりで数人分に匹敵しそうだ。
「……やれやれ。行くかぁ」
「本当に行くのか?」
「まだ言ってんのかよ」
もう何度目かになるやりとりに苦笑して、マイルズは鞄に手を伸ばす。いつものドクターズバッグに、いつも通りの道具が揃っている。これならば、状況に応じてどうとでもなることだろう。
ぱちんと鞄の留め金をかけて、マイルズは相棒にコートを寄越してやる。アルヴィスの口ぶりを真似て、ため息まじりにひとこと言い放った。
「つまらないことほど、とっとと終わらせるもんだ。そうだろ」
「……そうだな。さしあたってはこいつを飼い主の許に返して、それから出向くとしよう。フランだってあちこちから許可を取る時間が必要だろうさ」
白い毛をコートの布地からつまみ、アルヴィスがまた嘆息する。その足下で彼のズボンを毛だらけにしながら、白猫がみゃあと鳴いた。