猫を無事に依頼人の元へ送り届け、探偵と医師は連れだって馬車に乗り込んだ。
コートへ新たに付着した毛を気にして、アルヴィスは指先でぱたぱたと胸元を払っている。その仕草がなんだか愉快に思えて、道中でマイルズは何度かにやりとした。なにしろ黒いコートに白の毛はたいそう目立つ。猫と戯れていたことは丸わかりで、おまけに童顔で小柄な相棒の風貌からその光景を想像するのは容易いだろう。くく、と肩を揺らせば、隣から軽く足を蹴られた。
「なに笑ってる」
「や、べつに。猫飼いは大変だよなあ、黒い服着られないって言うもんな」
恨みがましげな視線をマイルズに投げて、アルヴィスはまたウールの布地をぱたぱたとはたく。適当に受け答えしたのがばれたらしい。ぺろっと舌を出して、マイルズは窓の外を眺めた。がたんと車体が揺れ、馬車は橋を渡りきって角を曲がる。通りの向こう側にそびえ立つロンドン警視庁の建物が、スモッグ越しに朧気な姿を現した。
「アポ、取れてっかな」
「取れてなかったら出直すしかないな。それで遅れるのはフランの責任だ、俺たちにはどうしようもない」
ドライな口ぶりで、探偵は姉を突き放すようなことを言う。やはりまだ納得はしていないらしい。マイルズが苦笑するのを気にしたそぶりもなく、彼は懐中時計のチェーンを引いた。蓋の窓から覗いた時計の針は、三時過ぎを指している。
「まあ、あれから一時間半だ。警部補殿が本気なら、もうとっくに許可のひとつやふたつはもぎ取っているだろうさ」
「相変わらず、強えなあ」
彼女の交渉術と、それを振るわれる上司。想像するだけで、ややお偉いさんが可哀想にもなってくる。とは言え、それを口にしようものならまたフランチェスカの怒りを買うだろう――女というだけで冷遇されるわたしは可哀想ではないのか、と。
「強くならざるを得ないだろうさ。男社会で満足に渡り歩こうと思えばな」
しばしの沈黙のあと、探偵は僅かばかりやわらかな声でそんなことを言った。意外な反応に医師が目を丸くする間に、馬車は蹄の音を鳴らしてゆっくりと止まる。身を乗り出してアルヴィスが運賃を払うのを横目に、マイルズは鞄を改めて確認し、扉を開けた。
煉瓦造りの建物は、何度来ても事務的な印象が拭えない。相棒と並んでここを訪れたのはなんだかんだで一度や二度ではないが、マイルズは未だに自分が場違いなような気がしてならなかった。制服の警官達が出入口から忙しなく行き来し、時折はかるような視線を投げてくる。アルヴィスが黒いコートの裾を翻し、軽い身のこなしで馬車から降りてきたので、医師は正直ほっとした。
「いつ見ても辛気臭い建物だ」
「おい、皆様の前で職場をディスるなっての」
探偵が余計なことを呟くので、マイルズは引きつり笑いしながら彼を小突いた。言われた方は涼しい顔で、コートの襟を指先で引くなどしている。呆れるほどマイペースな男だ。マイルズが天を仰ぐのも完全に黙殺して、アルヴィスは靴音も歯切れ良くかつかつと正面玄関へ歩いて行く。
「げ。アルヴィス・ブラック」
「おや。ご機嫌麗しゅう、トンプソン巡査」
入口をくぐるなり胡乱げな目を向けられても、アルヴィスはけろりとしている。慇懃に帽子を取る仕草さえ普段通りで、いっそその動じなさは相手の神経を逆撫でしたらしかった。小柄な探偵を鼻先越しに見下ろして、巡査は威厳を示すようにケープの身頃を引いた。ぴんと張った黒の布地に、金メッキのバッジは眩しく見える。ただの市民ならそれで退いたかもしれないが、探偵は動じる様子もなく、巡査の横をさっとすり抜けた。
「おい、どこへ用だ! 外部の者がずけずけ入っていくんじゃない」
「事前に約束をとりつけてあるもので。いちいち弁解が必要ですか、巡査」
やたらと突っかかる巡査に片眉を上げ、アルヴィスは静かに牽制する。肩をすくめて、マイルズは相棒に続く。トンプソン巡査にあまりいい印象はない。これといった理由もなく彼がフランチェスカに反抗するのを、医師は数度目撃している。
「探偵風情がいい気になるな。いっつもそうやって現場をひっかき回して――捜査は警察の仕事だ、わかっているのか」
「スコットランド・ヤードの警官ともあろう方が、善良な市民を恫喝するのは……流石にどうかと思いますね」
台本でも朗読するようにさらりと応えながら、アルヴィスは受付をすませる。毎度のことに担当者も苦笑いしたが、取り次いでくれるようだ。どうやらフランチェスカはしっかりと手続きを済ませておいてくれたらしい。
来訪者のバッジを受け取りながら、アルヴィスがちらりと目を眇めた。
「なにしろこちらとしては、協力の要請があって伺っているのですから」
「協力、協力か。どうせまたご立派な姉君様の要請だろう。女だてらに警部補、でしゃばり屋のあばすれが――」
「――ミスター・ブラック。ドクター・クロスも、お待ちしておりました」
ぎらり、眼鏡の奥でアルヴィスの瞳が鋭い色を帯びた瞬間、廊下の奥から馴染みの警官が駆け寄ってきた。制帽を手にして、人の良さそうな彼はにこにこする。その口ひげの端がもちあがるのを見れば、微笑み返さずにはいられない。ほっとして、マイルズはトンプソン巡査に背を向けた。
「クラー巡査、どうも」
「お待たせして申し訳ない。手筈は整っております。こちらへ」
「お出迎え感謝します、クラー巡査。おかしな手合いに絡まれていたものでね」
流石に先刻の罵倒は気に障ったのか、アルヴィスの言葉からは皮肉が滲むようだ。まだ言い足りない様子の同僚を眺めて、クラー巡査はひとつ肩をすくめる。まあまあ、とふたりの背を押しながら、彼は笑顔でさらりと口にした。
「大目に見てやってください。先週、手錠を紛失して減給を食らったばかりなんですよ」
「クラー!」
「さあさあ、参りましょう。どうぞ」
人好きのする笑みのまま、クラーは探偵と医師を奥へ案内する。その笑顔に、どこか張りついたような無機質さを見たのはきっと気のせいだ。自分の笑みまで若干ひきつるのを自覚しながら、マイルズは連れられるままに奥の棟へ歩を進めた。
* * *
「まったく、警部補が不憫でなりませんよ」
検視室へ向かう廊下に、かつかつと三人分の足音が響く。特に静かでもないその音をかき消しかねない勢いで、人のいい巡査は嘆いた。つられるようにマイルズもやや背を丸める。散々本人から愚痴を聞かされてはいるが、ああして明確な敵意を向けられているのを見ると、ただの心配では済まなくなる。よく女の恨みはなどと言うが、男の嫉妬もなかなか酷いものだ。
「やっぱああいうの、珍しくないんすね」
「ええ。ブラック警部補は、同格の誰にも負けないほど優秀ですよ。白状すると私も、それを認めるのには時間がかかりましたが……本当に優秀で、努力家な上司で。誰よりも早く出勤して、誰よりも遅く帰ってらっしゃいます。能力がないからじゃない。そうでもして人の何倍もの結果を出さないと、上に認められないからです」
天井を仰いで、探偵がひとつ息をつく。無茶な働き方をする姉を案じているのかもしれない。声をかけようかマイルズは迷ったが、相棒は何も言わず廊下の先へ視線を戻した。
「部下として、何もできてないのが正直しんどいです。ちょっと持ち物が違うからって――おっと、弟さんの前で、すみません」
「いえ――いいえ、巡査」
慌て気味に口をふさぐクラーに、アルヴィスは苦笑する。首の後ろをきまり悪そうに掻いて、探偵はまたひとつ息を吐いた。
「お気遣い有難うございます。巡査のような部下をもって、姉は幸運ですね」
「とんでもない、そんな」
「身内としては、諸手をあげて応援するわけにもいかない。僕自身、何度落胆させるような言葉を姉にかけたか知れません。しかし、誰になんと言われようと、こうして気にかけてくれる部下がいれば……非常に心強いことでしょう」
言葉を選ぶようにそう口にして、アルヴィスは足を止める。――第6検視室。彼の姉が指定したその部屋が、陰気な鈍色のドアプレートを提げてそこにあった。相棒にドアの前を譲られ、マイルズは気を引き締める。ここからは探偵の仕事ではなく、医師の領分だ。心持ち低く落とした声で、アルヴィスが背後から促した。
「雑談はここまで、本題に入りましょう。クロス、準備はいいか?」
「後はご遺体にお祈りの文句を捧げりゃな。――行くか」
ドクターズバッグの持ち手を握りなおして、マイルズは戸を開く。鼻をつく独特の臭気に、眉を顰めそうになりかろうじて真顔を保った。
*
フランチェスカが嘆いたとおり、確かに遺体は腐敗が始まっているようだ。血の匂い、肉の匂い――医師としていっそ慣れ親しんだそんな気配の中に、吐き気を催すような甘さがかすかに混じる。アルヴィスが喉の奥に呻きをかみ殺し、巡査に至っては既にハンカチで鼻と口を覆っていた。
「誰も彼も死ねばこうなるのかと思うと、救われるな」
「こら、ご遺体の御前で悪態つかない。――ツラかったら出ててもいいんだぜ」
相棒を小突きつつ問うも、アルヴィスは緩く首を振った。無用な気遣いだったようだ。医療従事者ではない彼にとって解剖など超弩級の非日常だろうに、やはり肝が据わっている。
「厳しかったらそこは勝手にする。構わず始めてくれ」
「了解」
外套を壁に掛け、鞄を足許に置く。手始めに十字を切り、被害者のために祈りの言葉を呟いた。上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り、アームバンドで留めておく。そっとクラー巡査が作業台にゴム製の手袋を置いた。
「どうぞ、お使いください」
「ありがとう、巡査。助かります」
感染防止か、念の入ったことだ。これもミス・フランチェスカの差し金だろうな、などとマイルズは思う。必要な器具もひととおり用意してくれたようで、念のためにと持ってきた自前のメス等は出さなくて良さそうだ。被害者の死因が死因だから、後処理が面倒になるだろうと予測していたので、これは素直に嬉しい。
さて、取りかかるとしよう。渡された手袋を取り上げ、利き手をつっこもうとして――止められる。見れば、相棒が手袋の指先部分をつかんで、しげしげと観察していた。せっかく気合いを入れたのに、出鼻をくじかれるような格好になり、マイルズは苦い顔をしてアルヴィスから手袋をひったくる。
「何してんだよ」
「先のところ。亀裂が入ってる」
「えっ」
思わずマイルズは手袋を取り落としそうになった。破損した手袋ではなんの防護にもならない。いっそ危険なくらいだ。
遺体を寝かせた台の向こうで、巡査も顔を青くしていた。予想外だったらしく、慌ただしく足音を立てながらマイルズの方へ回り込んでくる。
「す、すみません。すぐに代わりを――おかしいなあ、ちゃんと確認したのに」
「お願いします。クロスが感染しては堪ったものじゃない」
「申し訳ありません。……おかしいな、ドクターと確かに……うーん」
念を押す探偵にまで頭を下げ、クラー巡査は部屋を後にした。特に出来ることもなく、まだ呆けたままマイルズは相棒に声をかけた。
「あっぶねー。助かったよ、さんきゅー」
「素人じゃないんだから、しっかり見ろ。命を預けるものだろ」
「命……そう言うとすげー、あれだけど」
「別に大げさじゃない」
む、と露骨に顔をしかめられたので、はい、とおとなしく降参しておく。下手な医学生より、その辺りの管理能力にアルヴィスは秀でている。後輩に見習わせたいくらいだ。
「おまえこそ医者向きなんじゃねえの。今からでも転向したら」
「ばか言え、人の中身なんか毎日見て正気でいられるか」
「そうっすね」
ひとことで一蹴され、医師はまた諸手を上げて降参の体だ。遠回しに貶されたような気もしなくはないが、マイルズには忘却という防御機能がしっかり備わっている。それを持たないアルヴィスからの、ささやかな羨望の言葉だということは、わざわざ問い直すまでもなく解った。
気持ちは分からなくもない。なにしろマイルズも、相棒を手術したあの日の出来事だけは、判で押したように記憶に焼きついているのだから。
「やあやあお二方、すまないね」
戸口の方から声がして、ふたりは振り返る。軽薄そうな明るい金髪の男が、新たなゴム手袋をマイルズに掲げて見せた。その後ろでは、クラー巡査が長身を申し訳なさそうに縮こまらせている。
「ゴム手が破れてたって? 確認したんだけどね、悪かったなあ。ほい、これ」
放って寄越されたそれを、マイルズは両手でキャッチする。つい指先の一本一本まで確かめるも、今回はしっかりしたもののようだ。
「あー……どうも、ええと……?」
「ベケット、検視官だ。君たちが外部からいらした先生方かな」
「先生は彼だけです。私はただの付き添いでね」
不満を隠そうともせず、アルヴィスが肩を竦めた。おい、と爪先で彼を小突くも、全く動じた様子がない。困ったものだ。ひとまず自分だけでもきちんと挨拶しておくことにして、マイルズは相手に右手を差し出した。
「クロスです、マイルズ・クロス。どうぞよろしく」
「ご丁寧にどうも。流石だね、やはり捜査協力を求められるドクターだけのことはある」
「はい?」
「用意された器具をむやみに信用せず、ちゃんと調べたんだろう? 医者はそうでなくっちゃな」
「あー……え、ええ……まあ」
それは相棒の手柄だと言おうか迷ったが、相棒は我関せずとばかり明後日の方を見ている。仕方なく苦笑いでごまかし、マイルズは検視台の反対側をベケットに勧めた。