Prologue: 3. interlude I
Prosecutor Ashley W.B. Brighton――幾度も見返したその名刺を、セドリックはまた手にしていた。
検事、検察官。耳慣れない言葉である。ブルーブラックのインクで刻まれた名を、指先でなぞる。少なくとも、セレスティアにはない職業。"起訴する者"だから、こちらでは憲兵団の役目だろうか。そう考えると、壁の向こう側の世界では、随分と職業が細分化されているらしい。そうしなければ回らないほどに、あそこは大きな国なのか。
それを踏まえて思い返せば、セレスティアの常識とかけ離れた便利そうなものは数多くあった気がする。一度など、煙を吐きながら推進する大きな鉄の乗り物を目撃して、一瞬自分の目を疑った程だ。あれが魔法に頼らず、純粋な物理技術のみで全て賄われているなんて、にわかには信じ難かった。だが不思議なことに、あちらの世界に魔素の気配は一切なかったのである。当然、壁の向こう側では一度たりとも魔術は発動しなかった――通ってきた壁に描いた図形を除いては。魔法がないと回らない、この世界で生まれ育ったセドリックに言わせれば、なにもかもが不思議でならない。無論、あちら側の住人からすれば、雷や炎や水や氷が乱舞するこちらの普通が、どう転んでも理解不能なのだろうが。
一見大差無いように思えて、あまりに異なる彼の国と我が故郷。指先に滑らかな質感を伝えるこの紙さえ、同じ紙であるはずなのにどこか違う。だが、彼の名が刻まれたそれは、なんとなくその軌跡に彼の冷涼な気配を残しているような気がして――興味は、尽きない。惰性で日々を回していたような心が、久々に強く興味をひかれる。どうしようもなくわくわくして、誰かに伝えたくて堪らなくて――子供のようにうずうずしながら、セドリックは隣でのんびりと寝転ぶ黒髪の男へと、つい声をかけた。
「なあ、蒼月の壁のあっち側――英国ってさ、魔法、ないんだよ。すげぇよな」
*
手帳から小さな紙片を取り出し、緑の眼を丸くしてしげしげ眺めていたと思ったら、唐突にそんなことを恋人は言った。こうしていると本当に普通だ、何の変哲もない、ただの仲のいい相棒同士。んー、と生返事をして、寝転がっていた草の上でレスターは伸びをする。蒼月の壁――最近恋人が発見した、別の世界へと渡る術。何の変哲もない神殿の壁、その"裏側"が誰も知らない国と繋がるなんて、セドリックとレスター以外は誰も知らない。彼から寝物語に聞かされたときは、正直耳を疑ったものだ。異世界だなんてそんなと、半ば笑い飛ばしそうになったが、セドリックは真剣だった。そして今、あの壁の向こうが確かに自分達の世とはかけ離れた場所なのだと、裏付けるようなことを恋人は言う。
「魔法がない?」
「うん、ないみたいだ。詠唱してみても何も起きないし、描画術も蒼月の壁以外では無理だった。魔素自体が存在しないのかも」
「じゃあ、さぞかし原始的な生活してんだろうな、あっちの住民は」
まだ弓矢や槍で狩りでもして暮らしているのだろうか、そんなことをつらつら思いつつ、騎士は寝返りをうつ。原始的なんて、と少し不機嫌そうにセドリックが反論したので、そちらにちらりと視線だけ向けた。
「程遠いよ、そんなん。絶対向こう行ったら、おまえだって度肝抜かれるからな、レスター」
「なんだ、意思疎通にも苦労するレベルか?」
「逆だよ。別の方向に技術が発達してる。何十人――百人以上乗れるくらいでかい鉄の車両を走らせてたり」
「はあぁ!? 魔法なしでか?」
「なし。言ったろ、魔素がないって。煙吐いてたから、多分火を熾してるんだと思うんだけど」
「火でどうやって車両走らせんだよ」
「さぁ?」
肩をすくめ、恋人はまたカードで遊び始める。淡いクリーム色の地に、深い蒼のインクで刻まれた軌跡は、明らかに誰かの名。こうして一緒にいるにもかかわらず、他の奴のことでも考えているらしい。つい苛立って身を起こし、横から取ろうと手を伸ばす。魔導師は騎士や憲兵と比べて、課せられた基礎訓練時間が短い。比較すると鍛錬不足の彼から、ものを掻っ払うのは造作もないはず――しかし今回に限っては、セドリックのほうが反応が速かった。さっと身体ごと紙片を遠ざけられて、レスターはつい口をへの字にする。
「なんだよ、それ」
「向こうで知り合ったひとの名刺」
「ふぅん?」
「……よせよな、くしゃくしゃにしたら失礼だろ」
乾いた笑みに口許を引きつらせ、セドリックは名刺を手帳にしまい込む。ページの間に消えていく蒼の筆跡、ちらりと見えたそれに眼を細めて、騎士は片眉を上げた。
「ほっそい字だな。女の人か?」
「いや、男だよ。でも下手すりゃ女の人よりきれいなんじゃないかなぁ。銀髪に蒼い眼で、そこにいるだけで目立つっていうか、そんな雰囲気」
「なんかノヴァとか先生みたいだな、そう聞くと」
「うーん……? あそこまで強烈でもないかな……」
「……おまえ、ノヴァに聞かれたらビリッと食らわされるんじゃないかそれ」
「げ。……黙っといてくれない?」
「ぶっふふ」
相棒の情けない口調に少し吹き出して、またごろんと隣に寝転がる。師の面影を色濃く受け継いだ光の巫女は、ふたりの姉弟子でありながら教え子だ。だというのに、セドリックはどうも彼女に甘いといおうか、弱いといおうか。
それにしても気になるのは、彼のもつ名刺だ。どうやら手書きらしい字体からは、容易にその主の人柄を想像することができた。ああいった筆跡の人物は何人か商団で顔を合わせた経験があるが、軒並みくそ真面目で杓子定規な傾向にあった気がする。レスターに言わせればつまらない印象の、頭のかたい頭脳学士のような者達。だが相棒は随分と名刺の主に興味を持っているようにみえて、それが不思議でならない。騎士の推測が正しければ、相手はおそらく了見の狭い偏屈者だろうに。
「……そのアシュレイってひと、どんな?」
「ん? うーん、やさしいよ。とっても」
予想外の言葉に、レスターは軽く瞠目する。意外そうな反応に慌てたのか、いやえっと、とセドリックは取り繕った。
「そうだなぁ、すっごく頭がいいひと、かな。いろんなこと知ってるし、頭脳明晰って感じでさ。雰囲気も洗練されてて、さらっと粋な冗談とか言えちゃう感じの」
「へえ」
あの字体からはそうは思えないが。ふーむ、と片眉を上げて、騎士はひとり思案する。だいたい相棒がそのアシュレイとやらについて語る、その口ぶりも目の輝きも気に入らない。彼の態度が彷彿とさせるのは、秋の新学期辺りの時期だ。学び舎のそこここで少年少女達が互いに向ける視線、こそこそと仲間内で交わす弾んだ会話――先程から嬉しそうに語るその口調が、そんなものに似通っている気がしてならない。尤も、やたらと楽しげに異国の知人を褒めちぎる相棒本人は、そんな自覚など欠片もないようだが。
「多分いいところの出身なんだろうなー。少なくとも一般人じゃない気がする。郷紳とか、貴族とか」
「俺らからは程遠い」
「ふはは、そうかも。特に俺は百姓の家だしなー、おまえのとこでさえ苦労したくらいだもん」
「そうだったな」
それは周りの目が節穴だっただけだ、とは口にしなかった。そののんびりした見かけによらず、セドリックは優秀だ。学ぶ意欲があり好奇心も旺盛で、手先もそこそこ器用、飲み込みだって悪い方ではない。家柄という色眼鏡で見るから、能力に気づけなかった、ただそれだけのこと。だが周囲がそうだったからこそ、相棒はレスターの肩入れを必要としたのだ。そういう意味では、いっそあの無能もいいところの連中に、感謝のひとつでもしてやっていいかもしれない。幼い頃は理解を示さない大人達の態度に、憤りを覚えもした。だが今となっては、それさえセドリックとの繋がりを強めた出来事のひとつだ。
そう、繋ぎ留めておかなければ。この危なっかしい恋人は、少し目を離せばすぐに何らかの面倒ごとに巻き込まれる。他人に共感しやすい甘さ、彼を研究者たらしめる好奇心。ぱっと見た印象からは想像しがたい、血の気が多い気性。一度逆鱗に触れれば最後、激情に駆られて後先考えず突っ込んで行ってしまう――一度ばかり、彼本人にさえ向けられたその苛烈さを、忘れはしない。
故に、レスターが次に発した言葉は、騎士からしてみれば至極当然だった。
「なぁ、今度俺も連れてけよ」
「ロンドンに?」
「ん。俺も見てみたい、その魔法のない国。頭のいい奴は話してて楽しいし、そのひととも会えるなら」
「んー……」
しばし思案するように、セドリックは視線を彷徨わせる。おそらくその異国の友人が、急な闖入者を気にするかどうかを考慮しているのだろう。しばし風の吹き抜ける音だけがふたりの間を通る――もう一押しだろうか、そう思い、レスターはまた口を開きかける。しかし、うん、と相棒が軽く請け合ったので、そのまま口から出たのは確認の言葉だった。
「いいのか?」
「大丈夫だと思うよ、どうせ次も喫茶店だし、ひとり増えたところで。あ、でも制服はまずいかもな……私服で」
なるほど、所属を訊かれたら厄介なのか。ひとりで納得し、レスターは小さく頷く。どうやら騎士の想像以上に、向こうの文明は発達しているらしい。明らかに異邦人とわかれば見咎めてくるというのは、つまり、
「憲兵団みたいなのがいるんだな」
「うん、警察って言うらしいよ。ブライトンは"検事"。逮捕した被疑者を裁くときに関わってくる役職みたい」
「憲兵団の公訴提起係……?」
「それっぽい」
「ふーん……ちゃんと国家として機能してるんだな」
「そうだったら。言ったじゃん、あっちの文明もあっちの文明で、すげぇんだからさ」
軽く笑いながら、セドリックは手帳をぱたんと閉じる。どこか得意げな相棒の笑顔に一抹の違和感を覚えながら、レスターは頭上の晴天に視線を戻した。
抜けるように眩しい、今日の空。やたらと高いその蒼さが、いやに目に痛かった。