ひとり、蒼の部屋にいた。幼少期を過ごした塔の書庫、目を合わせない召使たちと、たくさんの本ばかりに囲まれた小さな世界。外は途方もなく広いと知りながらも、かつてそれはおとぎの国のように遠かった。
色違いの眼をした白猫と、終わりなくそびえ立つ本棚、そして部屋の片隅に鎮座するアップライトピアノだけが全て。かつてここで、鍵盤を叩き手慰みに音を鳴らしては、膝の上で耳をそばだてる小さないきものを眺めて時を過ごしていた。時折こっそり訪れる兄と、手を取り合ってかわすとりとめない会話も、中身などなく退屈で。まるで鏡だ、同じ髪、同じ眼、同じ顔立ち。何も変わらない、この呪われた頭の中身さえ――ほんの少しだけ兄が優る体格と、弟の欠落した感情を除いては。
ああ、だが僕はどうやら、その心とやらを手に入れてしまったのだ――彼がために!
「……セド。セドリック――」
愛しいひとの名を呟けば、蒼の壁に反響した声はすぐに霧散する。やさしく髪を撫でられる安らぎを、ぎゅっと抱きしめられるあたたかさを、キスがくれる柔らかな幸福を、その身をもって教えてくれた恋人。誰かを案じて思考が掻き乱される心地も、何事もなかったときの安堵も、その笑顔につられて頬が緩むくすぐったさも、みんなみんな彼がくれた、彼のためにうまれた想いだ。その手に灯す炎のような、あたたかく激しく燃えるこころでもって、セドリックは魔術だけに留まらず、ひとらしい感情までアシュレイに教え込んでいた。
今となっては、彼がいなければ、まっすぐに立っていることさえできない。ここは己の部屋なのに、慣れた空気も、古い本の匂いまでそのままなのに、独りでいると思うだけで、こうも心が乱れる。この世で独りきりのような淋しさに、恋しい人影を渇望しながら、淡い胡桃色ときらめく新緑を捜すのだ。
「セドリック――セド、セド、どこにいる……」
無駄かもしれないと知りながら、ただひたすらその名を呼ばわる。大人になった今、かつて充分だと思っていた部屋は思いのほか狭く、数歩ばかり足を進めるだけで隅々まで見渡すことができた。だがセドリックの姿はない、どうして、どうして、こんなにも近くに彼の気配はするのに、何故恋人はここにいない――ああだがそれも当然か、ここはセレスティアからもロンドンからも遠く離れた、我が為の鳥籠、この存在を隠す場所。扉を試してみても開きはしない、外に出ることは許されず、もう彼に逢うことなど、叶わない。絶望に似た心地とともに直感的に理解して、決壊する覚えたての感情が、慟哭となって喉から溢れ――
慣れた緑の毛布にくるまって、目が覚めた。
白亜の壁、飾り気のない家具、素朴な調度品。壁際に追いやられた小机には、資料やら書籍やらが乱雑に広げてある。クローゼットの扉はほんの僅か隙間を残したままで、部屋の主が出て行った際、慌て気味だったことを雄弁に語るようだ。枕元のランプの傍、鉛筆を重石に、走り書きのメモが一枚――アシュレイ、ちょっと行ってくる、気にしないでそのまま寝てて。Dearest、また後で――ロマンチストな彼らしい、甘いメッセージを掠れた軌跡で残して、セドリックは姿を消していた。
本来ひとりの使用を想定したベッドは、今夜に限って酷く大きい。膝を抱えてヘッドボードにもたれ、アシュレイは隣に転がっていた恋人の枕を抱きしめた。陽だまりを思わせる慣れた匂い、持ち主の気配はそこに色濃く染みついている。そうにもかかわらず、たいして大きくもないセミダブルの寝台は、嫌にだだっ広く、よそよそしいままだ。耐え難い違和感に、抱えた枕を握りしめる――しかしやはり恋人本人には及ばない、ただふわふわと柔らかいだけの羽根の詰まった袋は、彼のように安らぎを与えてはくれない。
縋るような思いで、サイドテーブルに手を伸ばす。引き出しの中に眠らせた小瓶は、手に取れば慣れた滑らかな質感で、その冷たさを鮮明に指先へと伝えた。手で握ってあたためようと試みるも、あえかな硝子は拒むような頑なさでその温度を保ったまま。ああ、彼の手にかかればあんなにも容易いのに――やりきれなさに息をつきながら、構わず中身を手首に垂らす。しかし、冷えたままの香油は然程その薫りを広げはせず、ただするりとした感触だけが手首に残っただけだった。
到底足りない花の匂いに辟易しながら、またセドリックの枕を抱えて、ひんやりとしたシーツに潜る。小さく身体を丸めて、恋人のいない部屋から目を逸らすように瞼をおろした――彼のベッドで、直前まで彼と眠っていたここでこうしていれば、このうるさい頭も黙らせられないかと願って。
(――ああ、くそ)
いくらなんでも、鮮明すぎる。もう何度目になるかわからない恨み言を、己の脳みそに内心だけでぶつけた。仕事では途方もなく便利でも、個人としては呪いに近い。なにもかもを記憶し、なにひとつ忘れることは叶わず、全ての情報をただ溜め込んでいくだけの、この頭が憎かった。これさえなければ、あの蒼の部屋に閉じ込められることも、奇妙な子供と敬遠されることも、きっとなかったのだろう――無論、ひととして最も大切だったらしいものから、斯様に遠ざけられて育つことも。
とはいえ、両親を恨みはしない、兄を嫉みはしない。公爵家に必要だったのは優秀な跡継ぎであって、化け物じみた子供ではなかった、ただそれだけのことだ。同じ頭をもつ兄がその記憶力を隠し通したのも、運と才能の賜物。たまたま自分にはそれが欠けていて、だからこそあの座は相応しくなかった、本当にただそれだけのことなのだ。なにしろ、我らが故郷は体裁と規則の国だった。あの曇天の街では、たとえ正しく男女で寄り添っていたとしても、その家柄が釣り合わなければ醜聞でしかない。天空の名を冠するこの国では、アシュレイとセドリックが手を取り合って歩いたところで、道端に咲く花ほどの注目さえ集めもしないというのに。
毛布にくるまり、恋人の枕を抱いて瞑目する。夢だと理解しているのに、あのひとりぼっちの蒼い部屋はしつこく脳裏に居座るようだ。震えが止まらず、強ばった手足は一度抜けた温度を取り戻さぬまま、血の気が引いて冷え切っている。ああ、もう何年も何年も前のことだというのに。隣で眠るあたたかな体温を、抱きしめてくれる腕を知ってから見るようになった悪夢は、どうしようもなく胸を掻き乱す。知りたくなかった、見たくなかった、こんな己の弱さなど。セドリックを守るため、強くあらなければいけないのに。ただでさえ気苦労の多い恋人だから、心配はかけたくないと思うのに。負担になりたくない、その一心でどんなに押し殺しても、彼から離れて眠る夜は、しばしばこんなことになってしまう。
ああ、早く戻ってきてはくれないだろうか。一度こうして目覚めてしまうと、なにかしら後押しがない限り、再び眠りに落ちることは困難だ。壁の時計は一時半を丁度回ったところで、隣室のウィルバーに眠り薬を貰いに行くにしても遅すぎた。