warmth
ただ、ひたすらに疲れた。
訓練を終え、ざっと水を浴びて汗を流すので精一杯だった。どこをどうやって歩いたのか定かでないが、気がつけば寮の前にいた。
重たい足を引きずって、レスターは玄関ロビーの扉を押し開ける。本当に体力も気力も限界だ、いつもなら癒しを求めて誰かの体温を探しただろうが、今夜はそんな余裕もない。何か胃に入れる気にもならず、ふらりと私室につながる螺旋階段へ足を向けようとして――談話室にいる見慣れた人影に気がついた。
肘掛け椅子に深く腰掛け、のんびりと脚を組んで、ウィルバーは膝の上に置いた本のページを繰っている。眼鏡の奥の視線は穏やかで、傍のテーブルに置かれたマグカップからは湯気が立ちのぼっていた。職員たちの喧噪で談話室は賑わっているのに、不思議と弟の周りだけはふんわりとぼやけたように静かに見える。その空気にひかれて、気がつけばふらりとそちらに歩を進めていた。――きっとあそこでなら、息ができる。
「うわ――レス!」
一人用の肘掛け椅子は、大の男ふたりには狭すぎた。構わず肘掛けにどすんと腰を下ろせば、抗議するような唸り声が弟からあがる。肩にでもぶつかったのか、ウィルバーが読んでいた本はその手からこぼれて、背表紙がかたんと床で音を立てた。
「ん。すまん」
「いきなりなんだよ。せめて声くらいかけて」
「うん」
迷惑そうに睨んでくる青い視線を避けるように、レスターは背を丸めて弟の肩にもたれた。自分とよく似たぬくもりが近くなって、薬草の香りが鼻に届く。この芳香が当たり前になったのはいつからだろう。遠い記憶の中、じゃれ合って過ごした少年と同じ懐かしい気配に混ざる、異質な匂い。
「……ねえ。重いよ」
「んー……」
ウィルバーの肩に押し当てた耳から、低い声がくぐもって届く。とうに声変わりして十年以上だが、レスターは紡がれたその言葉の響きから、遠い日の弟の面影を聴いた。鉛のように重かった身体が、ふわふわとした感覚に襲われて、さらに動かなくなる。
「レスったら。ここで寝ないで、」
「うん」
「起きろよ、もう。――なに、人恋しいの?」
「そうかも……」
「じゃあくっつく相手を間違えてるだろ」
いつもの火遊びの相手はどうしたの、と脇腹を小突かれる。肋骨の合間を的確に狙われてレスターは呻いたが、動く気になれずまた弟の背を枕にした。いいだろう、子供の頃はさんざんだっこしてやったじゃないか、少しは兄さんにも付き合え。
強情に動かないでいると、頭上からため息が降ってくる。諦めたような、大きな空気の塊。額にきつくしわが寄るほど眉を寄せているのが、見なくても判る。
「……レス」
「ん。ここがいい」
「……ほんと度し難いよね、ばか兄貴」
どけとばかりに、くるぶしを結構な勢いで蹴られる。寄りかかっていた背中が大きく揺らぎ、レスターは肘掛け椅子に危うく突っ込みそうになった。すんでのところで腕を掴まれ、荷物のようにえいやと半ば担がれる。動きたくなくて呻くと、うるさい、と余計に小言が降ってきた。服を引っ張られ、右腕が弟の肩に回されて、背中から伸びてきた手が左胴を強く支える。
「ほら。怪我はないんでしょ」
「してない……」
「じゃあ部屋まで、歩け。脚を動かせ。――はい。いち、に」
「んー……ウィル、おまえ、薬草くさいな……」
「ここで脳天から落としてやろうか」
酔っぱらいよりたちが悪い、そんなことをぼやく声がして、しっかりした手が身体を率いていく。仕草こそやや雑だが、隣のよく似た気配はあたたかで、レスターは安堵にひとつ息をつくと瞼をおろした。
ああ、あたたかい、
(叶うならあの頃みたいに、すべてわすれて眠りたい)