File 1: The Ties in Tatters

 この街で、青空は珍しい。空は大抵グレイの雲に覆われ、ふとすればにわか雨を零してくる。そうでなくとも黒煙や埃で、大気がくすんでいるのが常だ。英国首都・ロンドンが、「霧の都」の異名を取る所以はここにある。
 それにもかかわらず、この日は珍しく晴天で、顔に当たる日差しも心地よい。少々肌寒い空気はからりとして、冷えていく頬さえ快いほどだ。相変わらず風はきな臭いが、いつもより早く帰宅できる楽しみを、大きく削ぐほどの不快さではなかった。
 
(ああ、やっぱいいなあ。早上がり)

 その代わり前の日はもれなく夜勤になるのだが、今回に限っては患者がそれほど多くなかった。おまけに全員容態が安定していて、ゆっくり仮眠することができたのだ。結局この状況は、マイルズからしてみれば、何の理由もなく早上がりしたのに限りなく近い。なんにせよ、医者が暇なのはいいことだ。それだけ苦しんでいる人が少ないということなのだから。
 機嫌よく鼻歌など歌いながら、角を曲がり大通りに出る。時間が早いだけあって、街は人で賑わっていた。雑貨屋の店先に立つ売り子が、かわいらしい声でお客を呼んでいる。鮮やかな装飾品を横目に通り過ぎれば、パンを売り歩く中年女性の手許から芳ばしい香りがふわりと漂う。焼きたてなのだろう、まだ湯気のたつ一斤を勧められて、苦笑いで首を振った。残念だが、確かパンはまだ家にあったはずだ。
 がらごろと騒々しく傍を通る馬車を、大きく避けつつ家路を急ぐ。いつかのアルヴィスのようになってはたまらない。彼が馬車に撥ねられた折には、こちらも本当にひどい思いをした。それ以来、馬があまりにも近くを走り抜けると、どうにも過剰に反応してしまう。
 ――いやいや、やめだ。折角の早上がりを、どうでもいいことで台無しにしては勿体ない。
 気を取り直して、路地裏の前を通りすぎる。すると、その奥に見慣れた姿を見つけた気がして、思わず足を止めた。
 
「――あれ?」

 薄暗い細道に、目を凝らす。黒いコートであまり目立たないが、そこにしゃがみこんでいるのは、確かにアルヴィスだ。噂をすればなんとやらというものかもしれない。
 ――しかし、なぜ、あんなところに?
 目を凝らしてみれば、彼の傍に毛玉がいくつか、ころころしているのが見て取れた。アルヴィスと同じ黒、オレンジと茶色の虎柄、三色の毛並みも見えるし、真っ白なのもいる。にゃー、と鳴き声もした。あれは、猫の集会か。
 だが問題は、なぜ猫の集会に人間が混ざっているのか、ということだ。思わず首を傾げる。すると、眼前の小柄な背中から、明らかにこちらへ向けて言葉が降ってきた。
 
「そんなところで眺めてるなら、こっちに来たらどうだ。マイルズ・クロス」

 背を向けたままでよくわかるものだ。妙なところで感心しながら、路地裏に歩を進める。もしやはじめから気づいていたのか、そんなことを思いつつ、小柄な彼の横にしゃがみこんだ。
 
「……何してんの。ブラック」
「見ての通り、出待ちだ」
「出待ち?」
「ああ。ジョゼフィーヌ嬢のな」

 ジョゼフィーヌ。ジョゼフィーヌとは、誰だ。パッと頭に浮かぶのは、眼前の彼の実の姉、もといフランチェスカ・ジョゼフィーヌ・ブラック警部補だ。だがその彼女の姿はどこにも見えないし、弟であるアルヴィスがわざわざ姉を「嬢」呼ばわりする意味もない。
 考えながら彼の視線を追うと、その先には真っ白い猫がいた。他の猫達とは、見るからに毛並みの質が違う。汚れも少なく、よく手入れされてふわふわのそれは、明らかにいいところの飼い猫のものだ。
 
「……まさか、このネコちゃんが?」
「うん、ジョゼフィーヌ。尋ね猫だ」

 猫につけるには随分と大層な名だ。軽い驚きに目を丸くすると、アルヴィスは軽くため息をついた。
 
「よくこうして抜けだして、ここの集会に参加するのさ」
「ほへー。猫にもそんな事情、あるんだなあ」
「らしいな」

 やれやれと肩をすくめ、アルヴィスは白猫をじっと見つめる。猫どもは彼に構わず、にゃいにゃいとのんびり鳴くだけだ。もはやここの常連なのか、全く警戒されていない。と、言うより、どうにも馴染んでいる気さえしてならない。動物に例えれば黒猫のような奴だ。むしろ集会の一員と捉えられている可能性だって大いにある。
 
「――おい……おまえ、何か今失敬なこと考えたろう」
「あ。バレた?」

 相変わらず彼に隠し事はできない。ヘヘっと笑うと、軽く脇腹を小突かれる。そうこうしているうちに、猫の輪は一匹、また一匹とまばらになり、あとに残った件の白猫をアルヴィスがそっと抱え上げた。よく人に慣れているようで、猫は抵抗らしい抵抗もせずにその腕の中に収まる。
 
「さて。依頼も遂行したし、戻ろうか」

 白猫の顎を指先でかりかりやりながら、黒の探偵は大通りへと踵を返した。

 今度は二人と一匹で、先程の通りを歩く。黒いコートに白猫の毛皮が映えて、マイルズの横を歩く相棒は少々人目を引いた。
 
「そういやさ」

 手持ち無沙汰に猫の額を掻いてやると、愛らしい声でみゃーと鳴く。猫を構いながら口を開くと、アルヴィスは軽く頷いて先を促した。
 
「よく抜け出して……っつってたけど、まさかさ、こいつ常習犯?」
「ああ、毎度毎度だ。もう探すまでもなくあそこに行く」
「それさ、飼い主に……」
「報告したんだが、わざわざここまで出てきたくないそうだ」
「なんじゃそりゃ」

 もはや探偵としての職務から、半分ほど逸脱している気もする。思わずぱかんと口を開けると、アルヴィスは苦笑いして抱えた猫の前足を弄んだ。
 抱きかかえられるのが当然といった風情で彼の腕に居座る猫は、肉球で遊ばれてもおとなしくしている。探偵を見上げてにぃと鳴く声も安心しきっていて、マイルズにもひとりと一匹がよく互いを見知っていることは見て取れた。それだけ頻繁に逃げ出しているのだろう。
 
「おそらく、猫探しは目的の半分だ」

 ふにふにと猫の前足を指先で弄りながら、アルヴィスは肩をすくめる。その意図がつかめず、マイルズは首を傾げた。
 
「ん? どゆこと」
「依頼の度に旦那がどうの嫁がどうの、馴染みの奥様がなんだの……」
「あー。そっち?」
「多分そういうことだ」

 やれやれと息をついて、アルヴィスは頷く。医師であるマイルズも、問診をこなしながら世間話に応じることは多々あるが、探偵のそれとは明らかに質が違うと改めて痛感した。人の生活の裏を暴く職業なだけに、アルヴィスが振られる話題は人間関係の愚痴、噂話、ゴシップだ。しばしば品のないそれは、さぞかし彼の肌に合わないことだろう。連れ立って角を曲がりながら眺めたその横顔が、若干ひきつっている。
 
「おまえも大変だなあ」
「……まあ、自分で選んだ仕事だ。文句は言わないさ」

 それにやらしい話、猫探しにしては報酬がいいんだ。そうこそりと囁いて、アルヴィスは白猫を構う。半ば諦めたような声音に、マイルズは苦笑いして相棒の肩を叩いた。
 
「おつかれ。猫返したら、飲みにでも行こうぜ」
「ああ、そうだな――……ん?」

 ようやく少し笑った彼の言葉が、不審そうに途切れる。道の先を眺めるその視線を追ってマイルズが目を凝らすと、十字路の向こうに見えてきた自宅兼事務所の前に、一際目立つ女性が佇んでいた。アルヴィスと似た黒髪、同じ眼の形。細身の黒い上着に、なだらかな細身のドレス――ではなく、ズボン。長いコートに隠れていても、解る。彼女が明らかに視線を集めているのは、その美貌だけのせいではなかった。
 姉の姿に、アルヴィスが深いため息をつく。軽く首を振って、彼は通りの向こうへと歩を進めた。
 
「相変わらずだ」
「……うん」

 なんだか少し気まずくなりながら、マイルズはアルヴィスを追って足早に通りを横切る。女性のズボン姿なんて、正直、かなり大胆な服装のチョイスと言っていい。女性が脚を見せるなんて、言語道断だ。たとえしっかり布に覆われていたとしても、そのシルエットはしっかり公衆の面前に晒されている。それは、まずい。いくら彼女が警官であってもだ。実際、一度目撃したことがある――フランチェスカを娼婦と間違えてしつこく誘った輩が、美しいフォームの巴投げで撃退された場面を。
 なんにせよ、たとえ彼女が周りに合わせてドレスを着用していたとしても、ミス・フランチェスカ・ブラックを待たせるのは得策ではない。それは、今までの経験からアルヴィスとマイルズの双方が重々理解していたことだった。
 早足で近づいた探偵が、姉の肩を軽く叩く。振り向いてアルヴィスの姿を見るなり、彼女は開口一番、文句を投げつけた。
 
「遅いわよ、アル。どれだけ待たせる気?」

 弟とよく似た仕草で目を細め、もうひとりのジョゼフィーヌは不機嫌そうに仰せられた。

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